Goethe-Institut Mittwoch, 3. Februar 2016【ハイライト】 2015/11/7, 日独シンポジウム 『ネット時代と世論形成』
戦後70周年、東西ドイツ再統一25周年という節目のいま、インターネットを中心として加速化するメディア環境の変化の中、現代社会の世論形成のあり方について討議するシンポジウムが開催されました。登壇者は、ユルゲン・カウベ(フランクフルター・アルゲマイネ紙 共同発行人/学芸面総責任者)、クリストフ・ビーバー(デュースブルク・エッセン大学教授)、岩本裕(NHKジャーナルキャスター)、津田大介(ジャーナリスト、メディア・アクティビスト)の4名で、司会は佐藤卓己(京都大学大学院教授)です。ソーシャルネットワークの動員力とその両極面、ネット時代の世論形成における知識人の役割など、様々なトピックについて活発な意見交換が交わされました。(敬称略)
--------- 【キーノートスピーチ】 ![]() では、まず4名のパネラーの方のキーノートスピーチの後、議論に入ります。 カウベ: シンポジウムのタイトルにある、「インターネット」と「世論」についてお話しします。インターネットについて2点指摘すると、まず、インターネットは、それ以前の全てのメディアをもう一度内包しています。新聞、映画、書籍、テレビ、音楽、ショッピングといった既存のものを、電子ベースでより速くアクセスできる状態で、再提示しているのです。一方、インターネットは新しいメディアを登場させ、それまでに無かったものを含んでいます。例えば、ソーシャルメディアの登場によって、ちょっとした会話やコメントなど、今まで文字化されたコミュニケーションとして存在しなかったものが一気に世界中に拡散するようになりましたが、それがどのような質を持つのか、私たちにもまだはっきりとは分かっていません。 次に、「世論」という概念は18世紀ヨーロッパで誕生し、主に政治的なテーマに関する市民一般の意見だと理解されてきました。しかし、「世論はある法案に反対/賛成」と言う時、いったいそれは誰の意見なのでしょうか。全員のことなのか、ある編集部にいる人たちのことなのか。とりわけ、ソーシャルネットワークの世界では、その声が私的なコメントなのか、どの時点から議論のための公的な意見になるのか、その質を問う必要が出てきます。 そして、インターネットは世論をどう変えたのかについて2点指摘します。インターネットが情報伝達のスピードを加速させた結果、世論の不安定化という影響をもたらしました。もう1点は、情報の受容の仕方の変化です。新しい情報で人々にサプライズを提供することがメディアの役割の一つですが、テレビや新聞を見て予期しない情報が手に入ったということと、Googleで検索して自分が探していた情報が手に入ったということは、メディアの重要な差異だと思います。 ![]() 岩本: 私は、以前、3年ほど「世論調査部」という部署にいました。世論調査で重要なのは、「何人に聞いて何人が答えたか?」という数字の信用性です。例えば、1000人に聞いて30人しか答えなかったとしたら、ある一定の層の意見は全く入っていないことになります。また、調査の方法も信用性と大いに関係します。今のところ、最も偏りがない確実な方法は、「神の見えざる手」に任せる、つまり「ランダムサンプリング(無作為抽出)」です。これは数学的に証明されています。 佐藤: 続いて、政治学・メディア学がご専門のビーバーさんにお願いします。 ![]() 一方で、政治もソーシャルメディアに注目し、ネットを通じて発信することで、自分たちのメッセージを市民に直接届けようとするようになりました。そうすることで、元々批判的な姿勢を持っているオールドメディアを回避しようとしています。政治も市民側もソーシャルメディアを積極的に活用していますが、そこで、いったい誰に向かって語りかけているのかがはっきりしないという点を指摘します。それはソーシャルメディアがネットワーク化されていることに起因します。個々のユーザーは、自分が想定する友達の輪の中で語っているのか、実はものすごく広い射程にまで届いているのかを理解していません。それは、民主主義にとって良いことばかりではないのかもしれません。 佐藤: 続いて、ジャーナリスト、メディア・アクティビストという肩書きで活動されている津田大介さんです。SEALDsの若者たちの後見人のような立場という意味で、日本における新しい公共性の現場に立ち会っている当事者と言えるかもしれません。 ![]() 日本におけるメディアとネット世論の現在について、簡潔に3点にまとめます。第一に、ソーシャルメディアにはマスメディア以上に喜怒哀楽を増幅させる機能があると言えます。ソーシャルメディアには、情報入手と、友人とのコミュニケーションという両方の側面があるからです。第二に、「動員力」の向上とマネタイズです。左右、保守・リベラルでそれぞれが両極端な主張を行い、同調する者が集まってデモや資金集めといった具体的な行動を始めるようになりました。第三に、ネット上の「炎上」、いわゆる義憤が匿名で暴走することで、社会的制裁を超えた個人の吊し上げが過剰になりつつあります。例えばSTAP細胞騒動や五輪エンブレム撤回問題など、政治的な信条とは別の軸で、ネット上での世論形成が生まれ、現実社会に影響を与えるようになってきています。 佐藤: 皆さんのお話を聞いた上で、今日のテーマの「ネット時代と世論形成」は、非常に優れたタイトルだと思いました。ドイツ語の「Öffentlichkeit」は、「公共性」「公共圏」と訳されることが多い抽象的な単語ですが、今回の「世論形成」という訳語は非常に的確だと思いました。「公共性」とは、世論を生み出す社会関係のことですし、「公共圏」とは、世論を生み出す社会空間を指すからです。皆さんの4つのキーノートスピーチは、その問題に正面から向き合っていたと思います。 【ソーシャルネットワークの動員力とその両極面】 佐藤: さて、「世論(よろん)形成」と言ってきましたが、私自身は「よろん」と「せろん」を使い分けています。「よろん」は「パブリックオピニオン」の意味、「せろん」は「ポピュラーセンチメンツ」を指すと考えています。津田さんは、『動員の革命』という著書の中で、Twitterのようなネットメディアが世論(よろん)を可視化したと指摘されています。ここでの世論(よろん)とは、私の見方では、「ポピュラーセンチメンツ」を指す「せろん」のことだと捉えています。こうした「ポピュラーセンチメンツ」の動員が政治に与える影響について、ご意見をお願いします。 ![]() カウベ: 「アラブの春」や「オキュパイ・ウォール・ストリート」といった大きな動きは、やはりTwitterやFacebookと関係があり、そうしたソーシャルネットワークを使って、運動を組織化して政治に圧力をかけているわけです。ただし、こうしたツールが、例えば外国人排斥運動など、良くない動員のためにも使われる可能性を考えなければなりません。 ビーバー: そうしたソーシャルネットワークの両極面について補足します。津田さんの著書の『動員の革命』というタイトルは、「Twitter革命」「Facebook革命」も指すと思いますが、そこには監視という側面もあります。自分自身の意見を発信するという行為は、もし民主主義的な制度でなければ、すぐに見つかり、監視されることにもつながります。既存の体制に反対する集会に行って、その場でスマホを使ったことが分かってしまうという形でも監視される可能性があります。実際、「アラブの春」ではそういう事例も起きました。公共のコミュニケーションのデジタル化は、民主主義的な意見表明というプラス面をもたらすと同時に、監視のリスクにもなりえることを忘れてはいけません。 【ネット時代の世論をどう形成していくか】 佐藤: 今日は、「ネット時代と世論形成」ということで、津田さんの方から、この夏の国会前でのデモの話は出てくると予想していました。インターネットは、スピードとともに空間性を無くすので、一体感を得やすいメディアですが、一方で、ネット上の盛り上がりが世論調査や内閣支持率にどこまで反映したのか、という点に対しては疑問を持っています。 ![]() 津田: 従来の世論調査が大事だという意見もありますが、テレビの影響を受けやすかったり、高齢者の回答が多かったり、従来の世論調査だけでは拾えない世論があると思います。一方で、ネット上の世論も、ネットを使っているという時点でバイアスがかかるので、これからの世論をどう汲み取っていくのかは非常に難しい。 おそらく、従来型の世論調査がベースにありつつ、ネット上での盛り上がりとの中間くらいのところに正解があるんだろうと僕は思っています。メディアの傾向として、ソーシャルメディアがきっかけで火がつくケースが圧倒的に増えています。今までならば、世の中に対して問題を問いかけるというアジェンダセッティングの機能はジャーナリズムやマスメディアが担っていましたが、それがTwitterやFacebookに代わりつつあります。テレビや新聞といった従来のマスメディアがやらないといけないのは、そうした「ポピュラーセンチメンツ」の中から拾い上げたものを、「パブリックオピニオン」に変換して伝える機能です。でも、今、その機能が相当弱っているのではないか。オリンピックのエンブレム撤回問題がその良い例です。また、テレビや新聞でも、ネット上の検証を鵜呑みにして伝えることがけっこう多くて、どこかで、マスメディアの側が理性的にならないといけないところを、踏みとどまれなくなってきていることに危惧を覚えています。 岩本: 今、ほとんどのマスコミは、月に一回、内閣支持率の調査を行っています。それがどんな効果をもたらすかというと、例えば、数年前の選挙ではほとんど争点になっていなかった問題が、非常に大きな位置を占めてくることが起こりえます。それに対する意見をどう示すか、デモだけでは難しいし、目立った人の動きだけで判断できないので、世論調査で確かめるということは、逆に言うと、政権を監視する、我々国民の武器なんです。そのためにはきちんとした科学性を備え、バイアスを排除する必要があります。ただ、ずいぶん限界が見えてきたことも事実です。そこで今、ネットと電話の融合など、様々なやり方が試されています。 ![]() 一つの事例を紹介します。民主党政権で事業仕分けをやった時に、会議の様子をニコニコ動画で生中継しました。無駄な行政の予算を削るのか、継続するのか、廃止するのか、といった行政の刷新会議に対して、見ている人のコメントが一緒に画面に流れるんです。僕はこの時に参加していて、65000個くらい寄せられるコメントを全てチェックして、良いコメントや鋭い意見を拾い上げ、それを議論に組み込んで仕分けにも影響を与えるという取り組みをやりました。コメントの99%は「ポピュラーセンチメンツ」ですが、その中の1%の「パブリックオピニオン」をきちんとフィルターを通して議論に組み込めば、世論に力を与えすぎず、有用なものになるという一つの事例だったと思います。 ビーバー: 構造転換の非常に良い例だと思います。デジタル化やネットワーク化が進んで、それが政治のプロセスにどういう影響を与えるのか、今、適切なインターフェイスを捜している真っ最中だと思います。ネガティブな結果もあるでしょう。それをフィルタリングするには時間がかかります。一方、インターネットはスピードが速く、技術もどんどん進歩するので、どうやって良いツールを決定するのかというジレンマがあると思います。 カウベ: 今紹介された試みは、選挙と選挙の間の民主主義だと言えるでしょう。短いコメントを述べるのは簡単ですが、本当は、その時間をより深く考えるために使った方が、政治を良い方向に動かせるのではないでしょうか。様々な政策について知りたいと思う人々に、考えるためのきっかけを与えることが必要です。考えた末での意見であるべきです。 ![]() 佐藤: 討論型世論調査とネットの接続は、非常に魅力的な課題だと思います。実は私は、討論型世論調査の検証委員会の委員をやった経験があるのですが、一番大きな問題だと思ったのは、泊りがけで議論できる人は限られていることです。参加者の過半数近くは定年退職した男性で、20代男性は一桁でした。一方、同時に行われたニコニコ動画での20万人調査では、若い人が大半で、調査結果の違いは顕著でした。とりわけ、原発問題という長期的な問題を考える時に、ニコニコ動画は匿名だから信頼性がないと言って排除すると、本当に考えないといけない人たちの意見の排除につながる危険性も指摘しておきたいと思います。 【ネット時代の世論形成における知識人の役割】 ![]() カウベ: 戦後のドイツでは、知識人たちは、とりわけラジオと新聞で意見表明することで、一定の役割を果たしていました。テレビは当時、インテリなメディアと見なされていなかったので、テレビの普及につれて知識人の存在感も薄れてしまいました。私が思うに、知識人とは、優れた意見があるからこそ知識人として評価されるべきです。また、メディアにとって重要なのは、政治ですでに言われていることをなぞるだけではダメだということです。重要なのは、自分の意見をきちんと形成して表明することであり、それに対してどう反応するかは聞く人、受け止める人の自由です。 ビーバー: そうした知識人にもう1つの役割を求めたいと思います。公共的な知識人の歴史を振り返ると、議論や意見の表明以上に、政治の矛盾を追及したり、誤りを指摘して正す役割もあります。今日のテーマに関して言うと、インターネットという新しいメディアの登場によって、別の形の知識人が求められているのではないでしょうか。挑発的な意見ですが、例えば、ウィキリークスの創始者のジュリアン・アサンジや、アメリカ国家安全保障局 (NSA) による個人情報収集の手口を暴露したエドワード・スノーデンは、「インターネット知識人」と呼べるでしょうか。彼らは、従来の文章やスピーチではなく、データの発表という形で、政府の行動を批判しています。陰謀に近い部分もあるので難しいですが、彼らは、誤りや矛盾を追求するという従来の知識人の役割を、インターネットという新しい手段を用いて行っていると言えます。 ![]() 津田: ウィキリークスが提示したものは面白いと思います。ウィキリークスは最初は、リークされた秘密の情報をネット上に公開するだけで、新しい情報公開の形でしたが、ジャーナリズムではありませんでした。ウィキリークスが路線転換したのは2008、9年頃です。入手したデータをジャーナリストや税理士、弁護士など専門家に渡して検証してもらった上で、新聞社と提携して情報公開を行なう、つまり知識人と市民が連携した情報公開のモデルを目指したんです。アサンジ自身、「実はソーシャルメディアは、直接的なジャーナリズムが出現するメディアではない」と言っています。むしろソーシャルメディアは、新聞やテレビ、知識人が行った問題提起に対して、別の多様な見方を提示するものです。 それを踏まえて、皆さんに質問があります。ネット時代の世論を考える時に、知識人の意見表明、ネット上での匿名の意見表明、世論調査という3つに対して、どうバランスを取ればよいでしょうか。どれも大事ですが、重みづけが間違っているというのが今の僕の問題意識です。例えば、日本の場合、オリンピックのエンブレム撤回問題が典型ですが、ネット上の炎上を企業、行政、政府が過剰に気にしています。ネットの匿名の意見は、実は単なる極端なラウドマイノリティーの意見かもしれないんだけど、サイレントマジョリティーの意見だと勘違いしているのではないか。世論調査でサイレントマジョリティーの動向を掴み、一方でラウドマイノリティーの意見はネットの匿名の発信ということで、気にしないわけではないけれども、気にしすぎない。また、実名で情報発信している知識人の意見表明もあります。この3者はどういうバランスが適正なのかを、佐藤さんも含めてお聞きしたいです。 ![]() 佐藤: 私自身は、知識人の役割は、やはりインターネット時代にも必要だと思います。実名で自分の意見を表明する、その足跡を残していくことは、後で検証が可能です。世論調査も、賛成が何%、反対が何%という数字だけが問題ではなくて、その問題について考えるという教育的な効果の方がはるかに大きいと考えています。その時、知識人の役割は、考えるための足跡を残していくことであり、世論調査はそうした「考える」という議題設定をすることで、ネット上にあるような「ポピュラーセンチメンツ」を言語化していく実践が行われるのが最も理想的だと思います。 今日は、4人のパネラーの方から様々な論点を出していただきました。ネット時代の世論形成が決して簡単ではないことが明らかになったとともに、それが社会を動かしていく可能性についても示していただき、非常に有意義な議論ができたと思います。 編集: 高嶋慈 写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 Dienstag, 7. Juli 2015【ハイライト】 2015/4/25, Creators@Kamogawa 座談会 『偶然の芸術』
4月中旬に来日したドイツ人アーティスト5人が、3ヶ月間のレジデンス滞在の最初に行った座談会。登壇アーティストは、スザンナ・ヘアトリッヒ(美術家)、アンティエ・テプファー(人形劇作家)、フィリップ・ヴィトマン(映画製作者)、イリス・ドレーゲカンプ(ラジオドラマ演出家)、トーマス・ヴェーバー(音楽家)。ゲストに三浦基(演出家)と宮永愛子(美術家)を迎え、小崎哲哉(編集者)の司会のもと、「創造的な誤解」から生まれる芸術について、自身の作品への思いも含めて話し合いました。(敬称略)
------ ![]() ドレーゲカンプ: 私はラジオドラマをつくる時、時間的な構造について考えています。元々はストーリーがありますが、異なる時間を繋ぎ合わせたり、コラージュ的に重ねたりすることで、直線的な時間を壊すことができます。また、『病気の家』という作品では、アナグラム的な詩を使いました。アナグラムでは元々のテクストが壊されているので、直線的なものではなくなります。私たちがやりたいのは、時間的な構造と言語の音を壊すことです。日本では、水琴窟の音を言語と合わせようと思っています。そこからどんな摩擦が起きるのかに期待しています。 小崎: テクストと映像のインタラクションをさらに音楽に変換するということでは、三浦さんも地点の演出で同じようなことをされていますよね。例えば、『ファッツァー』では、空間現代というバンドを起用して、ブレヒトの作品世界を演出されています。また、『CHITENの近未来語』では、当日の新聞をテクストとして使われていて、今日のテーマ「偶然」に直結すると思います。なぜこうした試みをされているのでしょうか。 ![]() それを一気に解決したのが、ブレヒトの『ファッツァー』という作品で、空間現代というバンドにナマ演奏をしてもらいました。通常、劇音楽は、台詞に合わせて演奏の入るタイミングが決まっていますが、それを封印して、彼らは彼らで演奏したら止まらない。ただ彼らの音楽は特徴的で、「間(ま)」がいっぱいあります。その「間(ま)」に、俳優が台詞を言う。ただし、音と台詞が衝突した瞬間、その俳優は死ぬ。そういう一種のゲームみたいなことを思いつき、非常にスリリングな経験をしました。 また、『CHITENの近未来語』では当日の新聞を使います。ここは政治ネタ、次に天皇ネタ、ここは広告を読むというように構成は決まっているのですが、語られる中身が上演の度に変わります。一般的な演劇の楽しみ方は、台詞の中身や言葉に強度があって、文学性があることだと思います。それがうまく成功した場合に人が感動するメカニズムがあるのならば、別のメカニズムもあるのではないか。つまり、新聞の内容だって、「今日はこんなネタか、日本ってつまらないな」と思うこと自体が、もしかしたら豊かなことなんじゃないか。テクストの中身が問題ではなくて、演劇公演の形式そのものが観客に伝われば、内容が面白くなくてもいいのではないかという、今までとは少し違う楽しみ方を発見できたと思っています。 小崎: テプファーさんは、ハンス・ベルメールのような球体関節人形を作って舞台にのせ、さらに、ご自身に似せた分身として共演されています。生身の身体と人形のインタラクションを行なっている意図について、説明してくださいますか。 ![]() 小崎: 今のお話の中で面白いキーワードが出てきました。インタラクション、対話、予測不可能性。 次にヘアトリッヒさんと宮永さんに伺います。ヘアトリッヒさんは、《クロノシュレッダー》という時間をテーマにした作品をつくっていて、宮永さんの関心とも共通するのではと思います。お互いの作品について思ったことを聞かせてください。 ![]() 《クロノシュレッダー》は偶然に任せているわけではなく、1日分のカレンダーの紙がちょうど24時間かけてシュレッダーにかけられていくようにプログラミング制御されています。見ているあいだには何も変化が起きないくらいの動きですが、2週間後に見に行ったら、「こんなに時間が経ったんだ」と思うくらいの紙の量が出来ています。ずっと見ていても面白くないけれど、繰り返し訪れると面白い作品です。 ![]() 私の作品は時間的な要素が強いと言われます。私は「ほとんど変わらないけど変わるかもしれない」という時間の扱い方をしていますが、その変化の痕跡を見て、人は「時間」と呼ぶのだろうと思います。私自身は変化している状態を見せたいのではなくて、その変化している状態の時間から離れた時間、つまり現在進んでいるリアルタイムの時間ではなく、過去でもなく未来でもない、どこでもない時間ということを考えています。 小崎: ヴィトマンさんに伺います。今回のプロジェクトでは、ハイデッガーに触れると聞きましたが、彼はまさに時間について考えた哲学者ですよね。ヴィトマンさんのプロジェクトも、時間と関係があるのでしょうか。 ![]() 映画をつくる時には、常に時計で測るわけではありません。長く感じるのか、圧縮されていると感じるのか、主観的な時間の捉え方に影響する要素は非常に複雑だと思います。 小崎: 今日のプレゼンテーションでは、たまたま通訳を介さずに会話を聞いていて、分からない言葉が面白かったので取り入れたと話されていました。ヴィトマンさんの場合、最終的には映像として作品を固定化するわけですが、こうした偶然の要素を盛り込もうという思いはどのくらいありますか。 ![]() ただし、何かしらのハプニングは起こるわけで、それによって、もう一度最初からやり直そうとはしません。ハプニングが起こり得ることを踏まえた上で、もしかしたらそのハプニングこそが今この瞬間のベストモーメントになったと思えるような受け皿を自分の中に用意したいと思います。それを生産的な方向に変えられるのか、という反応ができるようにしておきたい。最終的には信頼することが非常に大切だと思います。自分がどれだけ色々なことを受け入れられるかということに対する、自分自身への信頼です。 今回のプロジェクトでは、翻訳とか通訳について取り上げています。普通は、自分の話す言葉がうまく訳されないと困りますが、今回は、ハイデッガーのテクストが非常に難解なので、本来の意味とは違うものが派生したり、誤解が生まれたりすることをむしろ楽しみにしています。 小崎: 先ほどのテプファーさんの発言で、「予測不可能性」という言葉が出てきました。音楽でも、ジョン・ケージ、ジャズやロックでのインプロヴィゼーションなどに限らず、優れた音楽家は、演奏中にアクシデントが起こっても、それを利用してもっと面白いことをやる場合がありますよね。ヴェーバーさんも、そうした偶然を取り入れたりするのでしょうか。 ![]() 小崎: 同じ質問を、三浦さんにも聞いてみたいのですが。地点の俳優さんを見ると、どこまでが演出で、どこまでが即興なのか分からない部分があります。稽古場やある日のステージで起こったことを、演出家としてダメ出しをせずにそのまま利用することもあるのでしょうか。 ![]() 僕の場合はまずテクストありきなので、意味がないということも含めてテクスト=意味ということが前提にあります。それと、皆さんの話を聞いていて決定的に違うなと思うのは、暴力的に言うと、演劇の場合、俳優つまり人が素材なので、それをコントロールしようとする時に、僕が神になってしまわないように一番気をつけています。 演劇の場合、基本的には、劇場で、時間も空間も完璧に制御された状態をつくるわけです。俳優なので、もちろん即興的な部分もありますが、その即興に対してコントロールします。むしろ即興らしく見せるためにダメ出しもするし、「ここは昨日に負けている」とか「そこはなぜ間(ま)が待てないのか」というダメ出しもします。これは絶対的なダメ出しではなくて、相対的なダメ出しです。そういう形で作品を育てているという感覚が正直なところです。 小崎: もう1つ質問です。先ほど、「空間現代のバンドが出す音と台詞がぶつかったら負けだ」という話がありましたが、音楽家は制御するのですか。 三浦: 空間現代は、楽譜を使わない演奏なのでラッキーでしたが、楽譜がある音楽家と一緒にやるのは難しいですね。彼らにとっては楽譜が神ですから。 音楽家とコラボレーションする場合、気分というものが共有されていればいいんです。その時、クラシック音楽を批判するつもりはないけど、五線譜の気分が通用すると思うなよ、ということなんです。そうじゃないアーティストはたくさんいるし、『光のない。』で現代音楽作曲家の三輪眞弘さんと一緒にやった時は、うまくいったと思います。三輪さんの音楽はゲームのようにルールが制御されているのですが、中身は全部即興なんです。また、電気マッサージ器を改造して、電気が流れると腕の筋肉が震えて、鈴が鳴る。そこに台詞をかぶせていく。そうした気分が、観客も含めて共有されているわけです。そういう意味での音楽は、舞台芸術では力を発揮しやすいのかもしれません。 ヴェーバー: ぜひ三浦さんと一緒に仕事してみたいです。音楽家、特に楽譜を使わず、即興的な音楽をつくる人は制御するのが難しいと思います。なぜかというと、彼らの使う言語が全く違っているからです。彼らに対して、この時点でこういうことが起きてほしいと説明するのはとても難しい。でも、試みることは面白いと思います。 小崎: ヘアトリッヒさんも、コラボレーションされることはありますか。 ![]() 小崎: 最後に、鑑賞者として見る立場から、ぜひ皆さんに聞いてみたいことがあります。 つくった作品を観客が見たり、批評家が見て批評したりする時に、「誤読」ということが起こると思います。創作意図とは違うものを観客や批評家が感じてしまう。これに対してどう思われますか。 ヴェーバー: 私は、「誤読」はないと思います。つくった作品を観客に体感・体験してもらう段階になると制御不可能なので、それぞれの見方があって良いと思います。 テプファー: 誤解されるということに対して、それほど気にしていません。むしろ、観客は、鏡として何かを返してくれる存在です。その人が持っている背景次第で、受け取り方も様々です。ネガティブな反応であっても、建設的なことだと思うので、次の作品に取り入れたいと思います。 宮永: 私の作品は、「儚い」という言葉で言われることが多いのですが、「消えるのではなくて、変わっているだけだ」と思っています。変わっていける柔軟さとかしなやかさ、変わることは次の安定を取り戻すための1つの動きであると考えています。そういう捉え方を私が提案することで、感覚の広がりのようなものが生まれたら良いなと思っています。 ![]() 編集: 高嶋慈 写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 Freitag, 22. Mai 2015【ハイライト】 2015/3/28, Creators@Kamogawa 座談会 『PARASOPHIA クロスレビュー』
京都で初めての大規模な現代芸術の国際展「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」(3月7日~5月10日、以下「PARASOPHIA」と表記)が開催されました。ヴェネチア、台北、あいちなど国内外の国際展のキュレーションも手掛ける港千尋(写真家)と、関西のアートシーンの変遷をつぶさに見てきた原久子(アートプロデューサー)をゲストに迎え、1月中旬~4月中旬までヴィラ鴨川に滞在するドイツ人クリエイター4人が、PARASOPHIAをどう見たかについて語り合いました。参加クリエイターは、クリス・ビアル(美術作家) 、ミヒャエル・ハンスマイヤー(建築家)、ヤン・クロップフライシュ(美術作家)、ゲジーネ・シュミット(劇作家、ドラマトゥルク)。それぞれが関心を持った作品、批判や改善点、未来の国際展の姿などについて活発な意見が交わされました。(敬称略)
----------- 【関心を持ったPARASOPHIA出品作品】 ![]() シュミット: 特にアラン・セクーラの作品《催涙ガスを待ちながら》が気になりました。81枚のスライド写真とテキストから構成された作品です。私はPARASOPHIAで初めてこの写真家に出会いました。この作品は、1999年に起きた、第3回世界貿易機関閣僚会議に対する抗議運動を撮影したものです。作品のアイデアは、この経済のグローバル化に対する反対運動を、明け方から夜中まで追いかけて撮影することと、フラッシュやズームやオートフォーカスを使わず、またプレスの腕章も付けずに撮影するということです。 このアイデアにとても深い感銘を受けました。つまり、「反フォトジャーナリズム」という立場に立ち、81枚のスライドを順に見せるというセリー的な手法がとても印象深かったのです。というのは、この見せ方によって、形としての写真芸術や写真ジャーナリズムではなくて、写真そのものの中身が前面に押し出され、観客がそれに向き合うことができるからです。 私の専門はドキュメンタリー演劇です。ドキュメンタリー演劇は60年代からありましたが、道徳的でした。しかし最近では、正しい答えを提示するのではなく、対立する立場を両方示して、観客に自分で考えて答えを導き出してもらうという考え方が主流です。セクーラも同じことを考えていたのではと思います。もちろん彼も写真家としてある姿勢を持っているのだけど、それが中心に据えられているわけではありません。どちらかに偏らず、何かを押し付けない姿勢が私の作品作りとも重なっていて、大変魅力的でした。 ![]() セクーラは、写真を撮りながら、写真の理論的著作を書き続けてきた方で、私にとって先輩にあたる存在です。一昨年に彼が亡くなった時は大変悲しい思いをしました。《催涙ガスを待ちながら》は、彼の一番生々しい写真で、しかもポジフィルムなので、もしかすると彼が撮ったカメラから取り出されたオリジナルのフィルムなのかもしれません。そうすると彼が特定の場所で経験した行動が、そのままフィルムという物質を通して自分に伝わるような気もして、勇気づけられると同時に、写真を撮りながら考えていくことの意味をもう一度考えさせられました。タイトルが意味するように、催涙ガスが飛んでくる所にあのセクーラがいたということの意味は大きい。「PARASOPHIAには特定のテーマはない」と聞きましたが、このセクーラの作品からもう一度全体を思い返してみると、やはりアーティストが自分の身体をもって社会の中に出て行く、ということは一つの共通点ではないかと思いました。 ![]() 原: 私はあいちトリエンナーレ2010に関わったこともあり、港さんと同様、一観客としてPARASOPHIAを見る部分と、主催者あるいは運営側の目線で見る部分がありました。一番気になった作品は、石橋義正さんの《憧れのボディ/bodhi》で、最新技術を用いた映像インスタレーションです。石橋さんの過去作品の文脈を知らなくても、エンターテインメント的な要素も含めて楽しめる作品だと思います。シングルチャンネルの映像作品の場合は、ある1つの時間軸だけを見ていくわけですが、《憧れのボディ/bodhi》では、会場を回遊させたり、高い壁を見上げさせたりするなど、空間を意識的に使っていて、見る側の身体的な行為を伴わせることで、観客にここでしか味わえないリアルな体験をさせていました。そして、男女の愛憎、日常と非日常といった対極的なものを見せられた最後に鏡があって、そこに自分自身が投影される体験をする、非常に印象深い作品でした。 ![]() ![]() 【展覧会場の導線について】 ハンスマイヤー: 会場の導線について意見があります。美術展でも建築展でもそうですが、特にPARASOPHIAでは導線がはっきり決まっていて、決められたコース以外の方向には行かれない。おそらくキュレーターが展示の順番を熟考して並べたのだと思いますが、私は、隣り合った作品同士の関連性を見出すのがすごく難しかったので、それについて皆さんの意見を聞きたいです。 ![]() 港: 導線をつくる際には、作品のテーマや関連性とともに、観客の集中力や疲労度など、身体的な経験も考慮すべきだと思います。例えば、京都市美術館の2階に上ると、まずヨースト・コナインの巨大な映像作品があります。分数も長く、内容も面白いので、ついつい見てしまう。暗い部屋で巨大なプロジェクションに慣れて部屋を出たら、次の展示室がアナ・トーフで、明るい空間に緻密で真っ黒い版画が並んでいて、目を凝らさないとよく見えないので、ものすごく疲れます。もちろん、スペースの制約やサイズもあると思いますが、今回の京都市美術館の全体を見ると、どれだけそうしたことが考えられていたのかは疑問です。 小崎: 今までの話で、それぞれの方がPARASOPHIAに感じた良い点と問題点が浮かび上がってきたと思います。 【国際展のあり方】 小崎: 後半では、PARASOPHIAの改善点など建設的な意見も含めて、国際展はどうあるべきかなど、国際展全般についての話をしたいと思います。 1つは、国際展がいまや世界中に数百あると言われている中で、21世紀に京都で国際展をやることにどのような意味があるのだろうかという点です。 2つめは、この国際展は誰のために開かれているのだろうか。観客のためといっても、専門家にポイントを置く、あるいはもっと一般的に市民全般に楽しんでもらう形もありますし、具体的な観客ではなくて、大文字の美術史のためにつくる意義があるという考え方もあるかもしれません。 ハンスマイヤー: 京都で大規模な国際展を行うことに関しては、私は相反する感情を持っています。京都のように素晴らしい伝統と歴史のある街で、あえて歴史から離れて現代芸術祭をやることはすごく良いことだと思います。でも他方で、京都にはやはり伝統と歴史があるので、PARASOPHIAは別に京都でやらなくてもよいのではという気もしました。皆さんは歴史との向きあい方をどう思いますか? ![]() ビアル: 私も、その点に違和感を覚えました。京都に既にある伝統的なもの、お寺や神社などと現代アートを折り合わせた試みがもっとあると思っていましたが、今は一方に現代アートがあり、他方に伝統的なものがあって、分かれてしまっています。でも、京都に反応したからこそ生まれた作品や、どちらの世界にも出会えるようなものであればよかったのにと思います。 ハンスマイヤー: でも一方で、京都のような町が歴史から解き放たれることも大切だと思います。私は京都に住んではいませんが、伝統や歴史の重みというイメージに限界があるのではないかとも思います。 小崎: 原さんに伺います。今日の参加者の中では、原さんは一番関西のアートシーンに詳しいと思います。その原さんから見て、今回のPARASOPHIAは、関西アートシーンの歴史の連続性の上にあるものとして感じられますか? 原: 全く関係がないわけではないと思います。今回が初の本格的な国際芸術祭ということで、これまで色々な国際展で見てきた作家をまた京都で見せられるのかという意見もありますが、そうした意見が言えるのはごく一部の専門家だと思います。今は美術大学の学生ですら美術館にあまり行かない中で、一般の市民の人たちが初めて出会う現代アートがこのようなものでよかったなと思えます。ただ、少し説明不足で不親切だという気もしています。歴史的・思想的な様々なことが作品の中に込められているので、子供向けのツアーなど、何か手がかりがあれば、もっと理解しやすいのにと思います。例えば、ある程度知識のある人や現代美術を見た経験が豊富な人には文脈が理解できるけれども、初めて現代美術に出会う人たちにとっては、ガイドブックを読むだけでは容易には理解し難いです。ただ作品自体は非常に質が高いので、そこをうまく使えば、PARASOPHIAという国際展が、美術を見るだけでなく、歴史や街を知る色々な機会になりうると思います。厳しい意見が多いですが、閉幕までの間にそれをどう伝えていくのかが、私たちジャーナリストの役割だと思います。 ![]() その意味で、今回良かったと思うのは、京都市美術館の建物の歴史を見せた点です。素晴らしい建築ですが、京都在住の人も、建物全体を見る機会はあまりなかったと思います。あの建物が戦後の一時期、米軍に接収されていたことを丹念に資料で見せていた点に感心しました。美術を見ているすぐ真下に、日本の20世紀の歴史がまだそのまま残っているのです。崇仁地区もそうですが、ある土地に潜在しているものを掘り出して、共有することが知識の生産です。それに今回のPARASOPHIAは挑戦していると思いました。 クロップフライシュ: 今後、日本での国際展にとって一番大切なのは公共性だと思います。日本では、政治家が語っていても一方的で、本当に公共性の中での議論がない。公共性を大事なアプローチポイントとして盛り込んだ芸術祭がなされるべきだと思います。PARASOPHIAのプラス面としては、ボランティアの方が多数参加していたことは素晴らしいと思いました。対価を得ることなく芸術祭に参加したということは、それだけ市民の中に関心やポテンシャルがあることの素晴らしい表れだと思います。 編集: 高嶋慈 写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 Mittwoch, 13. Mai 2015【ハイライト】 2015/3/8, Parasophia Conversations 03 「美術館を超える展覧会は可能か」
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京都で初めての大規模な国際現代芸術祭『PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015』の開催に合わせて、同芸術祭組織委員会とゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川は、日本とドイツのキュレーターたちによる国際シンポジウム「美術館を超える展覧会は可能か」を共同開催いたしました。登壇者は、PARASOPHIA アーティスティックディレクターの河本信治氏、ドクメンタ12や釜山ビエンナーレなどの国際展を率いてきたロジャー M.ビュルゲル氏(ヨハン・ヤコブ博物館館長)、先駆的なメディア・アートの総合研究・展示施設であるZKM現代美術館館長アンドレアス・バイティン氏、PARASOPHIA 参加作家である高橋悟氏(京都市立芸術大学教授)、そして、司会の神谷幸江氏(広島市現代美術館学芸担当課長)の5 人です。展覧会を取り巻く様々な制度、新しいプラットフォームの可能性、参加性、展覧会と国際性など、様々なトピックについて意見が交換されました。 ------- 【展覧会の制度(institution)】 ![]() 河本: 私は30年間、京都国立近代美術館で展覧会を企画する中で、近代美術館という制度にいつも直面しました。近代美術館という制度が要求する諸条件を参照ないしは批判するという行為を通じて、現代作家たちの仕事を取り上げてきました。 「美術館で開催する大きなグループ展と、美術館でないテンポラリーな組織で行う大型国際展とは、どう違うのですか?」とよく聞かれましたが、私は常に明解な答えを持っています。ビエンナーレやトリエンナーレなどの大型国際展は、美術館の制度から離れることができる、つまり近代美術史という単一な美術の物語から自由になれる、非常に特権的な瞬間です。また、個別の作家たちに対して、イデオロギーとしての共感を表明できる、稀な機会でもあります。ただそうした国際展が、現在、極めて制度化・巨大化され、消費の対象になっていることに対して心を痛めています。そうした中で、PARASOPHIAという形で展覧会を行うに至りました。 ![]() 河本さんは先ほど、美術館という制度から離れて自由な経験ができるとおっしゃいましたが、一方で、見る人にとっての難しさもあります。1990年代、近代美術館とコンテンポラリーなものを見せる現代美術館との間に断絶が生まれ、非西洋的な文化的な地図が生まれたときに、西洋の美術の経験値では読み取ることのできないものをどう伝えればよいのかという問題です。 神谷: 皆さんが制度(institution)について話されるとき、まず美術館という場所が出てきますが、その歴史的な側面についてもお話いただけますか。 ![]() この制度が非常に強力である理由は、白く四角い空間を用意すれば、世界中どこに持っていっても同じ物語が語れるという普遍性があるからです。そして、皮肉なことに、ホワイトキューブを持つ美術館が、60年代以降から80年代にかけてどんどん世界中を覆っていく一方で、そうした制度を批判検証するための「現代美術(contemporary art)」という定義が生まれました。この立場を守るために必要なものとして、三つの要素を私は挙げています。一つめはコレクションの放棄、つまり物語を語る行為や単語を捨てることです。それに従って、美術館の中で美術史を書くことを放棄すること。そして、ホワイトキューブを放棄すること。これが、現代美術館であるための厳密な定義だと思います。その上で、個別の作家たちの行為に対して、あなたのイデオロギーを支持しますという共犯関係を結ぶこと。おそらくこれが、現代美術館の大きな役割ではないかと思います。 バイティン: ドイツの美術の制度(institution)の多様性についてお話します。ドイツには、200年前から、芸術協会(Kunstverein)という市民がつくった団体があります。19世紀初め頃、貴族が美術をほぼ独占した状態に対して、ブルジョワたちによってつくられました。最近では、ミュージアム的な展覧会が開催されることもあります。また、基本的にコレクションを持たないクンストハレ(Kunsthalle)という存在もあります。 ビュルゲル: もう一つの制度として、ドクメンタが挙げられます。ドクメンタは元々は制度化する意図はなく、園芸のメッセの関連事業として1955年に開催されたのが始まりでした。そこには、戦後のトラウマを抱え、文化的な国に戻りたいという強い願望があり、コンテンポラリー・アートが架け橋として重要な役割を果たしました。 神谷: 今までのお話で、様々な既成の制度の書き換えの中で新たな美術館制度がつくられてきたこと、さらにアーティストとのディスカッションがニュートラルな形でできるようになる国際展が登場したことなど、展覧会というフォーマットが様々な段階において生まれ、現代はそれらが混在・共存しているという地図が見えてきたと思います。 ![]() 次に考える必要があるのが、近代以降、21世紀の現代においてますます大きくなっているグローバル資本主義です。これは、国民国家という制度を超えて世界中に広がっている、非常に不穏な脅威で、国際展を蝕んでいることも事実だと思います。さらに、21世紀の現状として、美術業界において分業システムがどんどん進み、作品をつくる人、売る人、批評を書く人、展示を行う人、というように専門職化しています。では教育の現場でどのような抵抗をすればよいのか。分業ではなくて、今までつながっていなかったものをどんどん関係させて新しいビジョンを出していくという別のアプローチが必要だと考えています。 【プラットフォームとしての展覧会】 神谷: 河本さんはPARASOPHIAのステートメントの中で、「思考と創造のプラットフォームを京都に根付かせたい」とおっしゃっておられますが、PARASOPHIAを通じてどういうことを投げかけたいと考えておられますか。 河本: PARASOPHIAは展覧会というより、ものの考え方や態度といったアプリケーションだと考えています。これをシェアウェアとして共有してもらい、場所や状況に応じて、色々な人が違う形で立ち上げて具体化していく、そうした広がり方を理想としています。それが継続されて制度化していったときに、反発する人たちがバージョンを更新していくような動きが知的な作用なのだろうと思います。それが京都に根付いてほしいという気持ちを込めました。 高橋: PARASOPHIAのコンセプトには共感を覚える一方、非常に知的であるなと感じます。それは悪いことではないのですが、人間の経験は総体的なもので、知的な力だけではなくて、心臓がドキドキしたり足元がフラフラするような経験がないと、複数の人間が共感する場を生み出せないだろうと思います。そのためにも、例えば、観客も搬入作業に参加して、重たい鉄の作品を一緒に美術館に運ぶなど、色んな別種のコミュニケーションの方法があってよいのではと思います。 ![]() 【参加性と権力の再分配】 神谷: 参加性(participation)というキーワードが出てきました。今は、出来上がったものを見せるだけではない、プロセスの体験の場所としての美術館や展覧会が求められていると思います。しかし一方で、共有や参加は、本当にどこまで可能かという疑問も生まれてきます。特に日本の場合、人口減少が進む中で、美術が市や町を活性化してくれる起爆剤としての役割を求められているように感じます。参加性(participation)について、皆さんからご意見をいただけますか。 ![]() 高橋: 僕は個人的には、現代美術の教科書に載っているような、参加型アートのあり方はつまらないなと思っています。お客さんが参加したいわけではなくて、アーティストがお客さんの参加を必要としているものがほとんどです。たまたま美術館に来た人にちょっと参加していただいて、これで世の中と関わっていますという言い訳的な作品がほとんどなんです。それは本当に参加と言えるのだろうか。participationという言葉自体に問題があって、個人的にはengagementという言葉を使いたい。展覧会という限られた期間でなく、もっと長期的に、固有名詞の関係で向かい合うという意味です。そうした関わり合いの中で、ローカルな問題をグローバルに、あるいはグローバルな問題をローカルに扱うといった別の視点でやっていかないと、参加型というあり方はリアリティのない空虚なものだと思います。 河本: 非常に深い部分に触れてくださいました。今の参加型についてのお話には、かなり共感しました。責められるかもしれませんが、参加型の美術がもてはやされる今の状況は、批評的な視線の衰退と重なっていると思います。ものを見るという行為は非常に創造的な行為です。これは自分で展開していかなければできないもので、決して民主的ではない。そして作品と行き来しながら、自分の中で表象されるものを分析していく、その解読が間違っていていいんだ、つまり作家の意図と一致しなくていいんだ、その幅こそが本当に創造的なものの見方なんだと思います。ですから、安易に語られる参加型、民主的な美術、民主的なアート・フェスティバルについて、私は根本的な疑問を持つという意味では、高橋さんと同意見です。 ビュルゲル: 今おっしゃった、参加型の問題について、一例をお話します。PARASOPHIAと同様に、ドクメンタのような国際展には、数多くの人が訪れるので、子供や若者をどうしたら取り込めるだろうかと考えます。私は、権力の再分配ということが、芸術のレベルだけでなく、制度のレベルにおいても、一つのキーワードであると思います。私はドクメンタ12において、美術に関心のない若い世代に対して、展覧会のガイドを君たちに任せるというアプローチを取りました。君たちは展覧会について話してもいいし、自分の好きなことを話してもいい。大人たちは一時間、君たちの話に耳を傾ける。このアイデアは、若い世代を非常に面白がらせました。どう行動するのかを自分たちで決める、自分たちが権力の側に立つことが彼らの関心を呼んだのです。観客が興味を持ってプログラムに参加してくれる、それも一回きりではなく、中長期的に参加してくれるような形で、どうやって我々の権力を放棄すればよいのかを考え直さなければならないと思います。 【展覧会と国際性】 ![]() 河本: 簡単に答えられない、難しい問題です。現在、100~200人のアーティストを集めた大型国際展は、世界中にあります。その中で、京都で新たに国際展をやろうとしたときに、同じことをやる意味があるだろうかと考えました。唯一できることは、今あるグローバルスタンダードの大規模な国際展とは違うものをつくってみることでした。大型国際展が世界中を均質化している中で、非常に個人的な視点からイレギュラーな塊をつくってみたという形での介入だと思います。 バイティン: 制度の危機についてお話しします。今は、とにかく求められるものがイベントになってきていて、当然の結果として展覧会が表面的なものになってしまうという危機感があります。本当にそこから独立した形で何ができるのか、資金が限られた中で何ができるのか、そうした課題に向き合っている日々です。展覧会を行うことで、作品の価値を高める手伝いをしていることは間違いのないことですが、なるべく美術市場から離れたところで、重要だと思うものを紹介したいと考えています。 神谷: 今日のディスカッションの中で、印象に残った言葉を皆さんからいただきました。participationという言葉ではなく、engageする、もっと深く関わっていくことで、美術というものを考えていく体験にする、そして何かをするときの権力をいったん放棄して、今まで権力を持たないと思われてきた人々に再分配することで、新しい美術の取り組みができるのではないか。それは物理的な場所である必要はなくて、皆が共有できるプラットフォームができていくのではないか。困難な時代ですが、そうした希望や努力が求められていることを確認したと思います。今日は皆さん、様々な意見をありがとうございました。 編集: 高嶋慈 写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 "【ハイライト】 2015/3/8, Parasophia Conversations 03 「美術館を超える展覧会は可能か」" vollständig lesen Freitag, 6. März 2015【ハイライト】 2015/1/31, Creators@Kamogawa 座談会 『伝える、承ける、創り出す』
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1月中旬から3ヶ月間、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川に滞在するドイツのクリエイター4人が、編集者・小崎哲哉の司会のもと、日本人のゲストスピーカー2人と語り合う座談会が開かれました。参加クリエイターは、クリス・ビアル(美術作家)、ミヒャエル・ハンスマイヤー(建築家)、ヤン・クロップフライシュ(美術作家)、ゲジーネ・シュミット(劇作家、ドラマトゥルク)、川尾朋子(書家)、永松仁美(昂 KYOTO 店主)です。「伝える、承ける、創り出す」をテーマに、「写し」から学ぶこと、伝統についてのリサーチの汎用性、技術の再現、伝統の継承、残すこととアーカイブの問題などについて活発な意見が交わされました。(敬称略) ----------- 【「写し」から学ぶこと】 ![]() 川尾: 「道」の付くものは6歳の6月から始めると言われています。私も6歳から始めました。基本は真似ることなので、まずは形などを頭に叩き込むために、臨書から入ります。 小崎: 永松さんは、焼きものなど、工芸のプロデュースをされています。日本の焼きものには「写し」という伝統があって、これを「コピー」と訳すと「価値がない」と思われてしまいますが、臨書と同じで「修業」という意味合いもあるでしょうし、そこから何かが生まれることもあると思います。永松さんの近くにいる若い陶芸作家たちも「写し」をやっているわけですよね。 永松: もちろんです。やはりそうすることで、「手の動きを知る」というか、「写す」ことによって、自分が憧れている作家の手の動きを確実に感じ取れると思います。 小崎: ビアルさんやクロップフライシュさんは、アーティストとしてそういう修業をなさいましたか。 ![]() 先ほど川尾さんや永松さんがおっしゃった、土や手の動きと向き合うことで、ある素材の感覚を受け入れ、自分のものにするというのは非常に実際的な動きですよね。その意味では、私のやっているのは分析的で理論的なアプローチであって、そういう形で素材と向き合い、マテリアル・イコノグラフィー(素材の図像学)に至るということです。 小崎: クロップフライシュさんは、今回のレジテンツの中ではいちばん日本に通じていらっしゃると思うので、あえて伺いますが、日本の「写し」の文化に興味はありますか。あるいはご自分の活動で、その現場に立ち会ったことはありますか。 クロップフライシュ: 「写し」や模倣することで何かを学び取ることにはそれほど興味はありません。例えば、日本の庭について言えば、8世紀頃の中国の水墨画から着想したものを、庭という別のメディアに移し変えたのではないかと思います。数百年の時を超えて、国や文化の境を越えて、そういうことが行われたことは面白いと思いますが、作業のメソッドとしてはそれほど興味はありません。むしろあるアイディアを現実化する際に、アマチュア的な手法で行ったことが結果となったことが面白いと思います。 一方、手工業は、また別の世界で、手がどれだけ使えるかが重要だと思います。手工業の場合は、繰り返し行うことで、自動的にある動きになったり、その流れが身に付くという点では、「写し」や模倣は非常に重要なのだと思います。 ![]() シュミット: もちろん、伝統とは一度、真剣に向き合っておかなければなりません。しかし90年代終り頃から、演劇では、伝統的なものから距離を置くようになりました。例えばドキュメンタリー演劇の場合、ペーター・ヴァイスの1965年の戯曲『追究』があります。この作品では、最初にフランクフルトで行われたアウシュヴィッツ裁判の記録を使って、パターン化されたキャラクターを作り出し、裁判の光景をわかりやすく再現しようとしました。けれども、現在の新しい演劇は、そうしたわかりやすい解決を提供しようとしません。問いかけはあっても、答は提出しません。声の多様性が非常に重視されていると思います。 【伝統についてのリサーチの汎用性】 小崎: 根本的というか広い質問ですが、皆さんは京都に滞在して学んだりリサーチされたりするということですが、それが現代のクリエイションにおいてどれだけ意味があるのか、お聞きしたいと思います。皆さんがヨーロッパから極東の地に来て、伝統についてリサーチされる場合に、それをそのまま持って帰って使えるくらいの汎用性はあるのでしょうか。 ビアル: とても難しい質問です。現時点では非常に答えにくい。初めて日本に来てまだ2週間しか経っていません。もちろん来る前には、ステレオタイプかもしれませんが、こうだろうという期待はありました。しかし今回はあえて事前にあまり調べず、偏見を持たずに来ようと思いました。京都に来てからいろいろ把握するつもりです。これから日々、色々なインプットが起きると思います。 ![]() シュミット: 私もまったく同感です。いままでそういう体験ばかりしてきました。まず、質問やコンセプトを事前に作り、それを持ってある国を訪れて人々と話をするのですが、思っていたこととまったく違う結果になって驚くことが多々あります。 ビアル: 京都の滞在では、工芸において、どういう環境で皆さんが仕事をされているのかが、私の作品にも影響してくるのではと思います。日本の工芸的なものを私のインスタレーションの中に取り込んで、そこにナラティブを生み出せるかどうかに興味があります。特に京都のような、手工芸に囲まれている街だと、とても面白いことができるのではと思います。 【技術の再現、伝統の継承】 ![]() 永松: 吉岡先生は、日本には4つの季節がある、工芸にしても表現にしても知恵があると、いつもおっしゃっています。つまり、この季節に合わせてこうしていこうというように、知恵を発揮した表現があふれています。ヨーロッパでも、作品を見るときに、知恵や精神性が必ずバックにあるということを伝えたいとおっしゃっています。 また、薬草や漢方の素材が、染色に用いられることもあります。例えば、ジーンズを染めるインディゴは、元々アメリカでは虫除けに使われていて、馬を放牧する人たちが着ていました。昔の人々が築いてきたそうした色々な知識や知恵を伝えていきたいと吉岡先生はおっしゃっています。 小崎: いまの時代には無いものを作り出すということで、復元も一種のクリエイションですからね。その意味でとても良い例だと思います。 ![]() 日本の文字には漢字、ひらがな、カタカナがあります。政治には、中国から輸入した漢字が使われていて、基本的に男の文字でした。一方、ひらがなは、女性が和歌や日記を書くために作られたものです。ひらがながあったからこそ、「余白の美」という日本ならではの美意識が生まれました。それは女性から生まれたもので、日本人が中国から渡ってきた漢字を昇華させた良い例だと思います。その部分はこれからも受け継いで、後世に残していきたいですね。 【残すこと―アーカイブの問題】 ![]() ビアル: 一般化したくないので、私の経験から言うと、素材の経年変化がどうなるのかわからないものがたくさんあると思います。でも私が作るときには、それはそれほど重要な意味を持っていません。そして、少数かもしれませんが、アーティストにとっては、作品を美術館や博物館の中でアーカイブすることは、ある枠組み条件の下でないとできないことなのだと思います。有機的な素材を使って変容の過程を見せる作品や、ビデオや映像、コンピューターを使った作品が、百年後、二百年後にも見ることがそもそもできるのか。そうなると修復家の仕事も変わってきます。そうした技術をどうアーカイブするのかということも修復家の仕事になってきます。何でもかんでも美術館や博物館でアーカイブされるべきかどうかもわかりませんし、いま私たちが美術館や博物館で見ているものもほんの一部にすぎません。もしかすると、答を出すべき問題でもないかもしれないし、毎日世界中で大量の写真や絵が作られている中で、フィルターをどう設けるかが重要だと思います。失われてはいけないものを守るためにはどうすればよいのか、どういう可能性があるのか、いまの情報の洪水、作品の洪水の中で、どうアーカイブするのかということだと思います。 ![]() 小崎: いまビアルさんが「アーカイブ」というキーワードを出してくれましたが、今日の座談会でアーカイブの話はしたいと思っていました。最近、ローマのヴァチカン 図書館の方に会ったんですが、現在、古文書やマニュスクリプト(手稿)など、数万点に上る膨大なコレクションのデジタルアーカイブ化を進めていると聞きました。その方によれば、写真画像の2Dデータを残す際に、どんどんバージョンが変わっていくので、どの保存フォーマットを採用するかが重要だそうです。 もうひとつの問題は、実物をどうするのかという問題です。先ほどハンスマイヤーさんは、「実物が残らなくても大丈夫だ」とおっしゃいました。そうかもしれませんが、同時に、本物がないと伝わらないものもあるのではないかと思います。形態にもよりますが。例えば、川尾さんがされている書道の世界では、史上最大のスーパースターは王羲之です。ところが彼の書は、実物は残っていないとされています。まさに「写し」だけが残っているので、劣化コピーである可能性は否定できない。それでもそれが成立するのは、書というメディアが、2Dつまり平面だということが非常に大きいと思います。一方、器や木工といったものは3Dなので、そこに手わざや手の痕が残っていることが重要ではないかと思います。 つまり、これからの時代のアーカイブにとって問題なのは、デジタルの場合にはフォーマットが重要である。しかし一方で、実物の問題もあるのではないか。さらに、テキストなどで伝わるのかもしれませんが、理念もある。この3つに分けた場合、特に実物の問題はどうしたらよいとお考えですか。 ハンスマイヤー: デジタルに関する問題は別にあります。むしろ、どうやって忘れられるかということです。あまりにもたくさんのものを残してしまうので、忘れられる可能性がほとんどないということが問題だと思います。 ビアル: 話が色んな領域に入ってしまっている気がします。どのような作品の話をしているのか、工芸品のことなのか、花瓶のことなのか、それを3Dプリンターで再現しても形を参照する際のヒントにはなるでしょうが、元々の精神は間違いなく失われてしまうでしょう。また、書道の話に戻ると、真筆がなくても、完璧な「写し」があれば、それを模写することで伝えられることはあると思います。 ![]() 一方で、あまりにも伝統に引きずられてしまうと、伝統に対するリスペクトがありすぎるあまり、変化をもたらしたいという動きが鈍ることはあると思います。 小崎: 今日は皆さん、ありがとうございました。 編集: 高嶋慈 写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 "【ハイライト】 2015/1/31, Creators@Kamogawa 座談会 『伝える、承ける、創り出す』" vollständig lesen Freitag, 31. Oktober 2014【ハイライト】 2014/9/23, Creators@Kamogawa 座談会「記憶と記録」
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9月中旬から3ヶ月間、ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川に滞在するドイツのクリエイター3人が、編集者・小崎哲哉の司会のもと、京都を拠点とする日本人クリエイター2人と語り合う座談会が開かれました。参加クリエイターは、アンドレアス・ハルトマン(映像作家)、イェルク・コープマン(写真家)、スヴェン・プファイファー(建築家)、仲西祐介(照明家、KYOTOGRAPHIE代表)、小野規(写真家)です。「記憶と記録」をテーマに、記録と真実性、災害や負の記憶とメモリアル、激増する映像やソーシャルメディアと伝達の方法など、多岐に渡る内容について活発な意見が交わされました。(敬称略) ------------ 【記録における真実性】 ![]() 小野: まず、「写真」という言葉が面白いですよね。ヨーロッパ言語では、「photography」は「光で描く図像」という意味です。「heliography」という言葉も使われたことがありますが、「helio」とは「太陽」の意味です。つまり、光でひとつの像を作っていくというのが「photography」であり、それが真実であるかどうかは名前の中には言及されていません。 そして、1840年代、つまり写真がヨーロッパで発明されて約10年後には、オランダ人医師によって日本の島津藩に写真が伝えられて、「photography」という言葉が「写真」と訳され、「真実を写すもの」として社会的に了解されたということは、とても興味深いです。写真の描写性の高さに日本人は驚き、「真に迫っているもの」として「写真」という言葉が作られたのだろうと思います。歴史的なことも含めて写真について考えてみると、そうした言葉の使い方の中に文化の違いが既に現れていると思います。 小崎: ハルトマンさんは、ご自分で映像を撮って編集される際に、今の問題に直面されると思いますが、記録における真実性についてどうお考えですか。 ハルトマン: 大変興味深い質問です。私もコープマンさんと同じで、イメージや映像は、客観的な真実ではなく、主観的なものだと思っています。つまり写真には、写した人の意識が現れているのです。映像の場合は、編集というさらなる選択の作業が加わります。私はある場所に数週間滞在して、長時間の映像を撮影しますが、作品に使用するのは、ほんの一部です。これは真実を主観的に操作していることになります。 小崎: 仲西さんに伺います。KYOTOGRAPHIEでは、フェスティバルとして当然のことながら、いろいろなタイプの作品が集められていますが、写真の記録性には重きを置いているのでしょうか。 ![]() 写真は記録するものですが、常に時代は進んでいくので、新たな記憶が写真というメディアを使って歴史に残されていくという意味では、写真にはまだまだ可能性があると思っています。京都という歴史的な都市で新しい写真の可能性を模索していきたいという思いでKYOTOGRAPHIEを始めました。 ------------ 【場所・建築と記憶の共有】 小崎: プファイファーさんはダニエル・リベスキンドと一緒にお仕事をされました。リベスキンドは、ベルリンのほかにもコペンハーゲンにユダヤ博物館を作っていて、そのプロジェクトに参加されている。リベスキンド自身がユダヤ人であり、ユダヤ博物館の設計にはユダヤ人の記憶を込めるということがかなり大きな要素になっていると思いますが、プファイファーさんはご自分で建物の設計をされるときに、その土地や建物の固有の記憶を何らかの形で込めるということに関心を持っていらっしゃいますか。 ![]() コープマン: 現在と記憶との関係は、私たち皆に関わっていると思います。そのひとつに、集団の記憶というものがあります。私の作品の場合は、個人の経験、認識、立場、行動を大切にしていますが。写真や映像、建築と記憶を関わらせる際に、何かを思い出すために何をどれだけ与えるのか、例えば言語や映像が必要なのか、あるいはそうした情報やインプットを与えずに空間だけを与えるのか、いろいろなアプローチが考えられると思います。それはイエスかノーかという判断だけではなくて、これかもしれないという非常に微妙なニュアンスの問題だと思います。 ヨコハマトリエンナーレ2014のキュレーターの森村泰昌さんと先日会いましたが、今年のテーマは記憶と逆で、「忘れることの潜在的可能性」についてでした(註:正式タイトルは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」)。記憶の対極として、忘れること、忘却ということも非常に重要だと思います。 小崎: 今のコープマンさんのお話は非常に面白い。どなたかご意見はありますか。 小野: コープマンさんがおっしゃった、共通の空間、共通の記憶は、芸術を作っていく上で非常に重要なものだと思います。ヨーロッパに暮らしていると、ヨーロッパのクリエイターはそのことを非常に意識して作っていると思います。共通の空間、共通の記憶を制作のベースにすることで、他者とつながることができる。その点、多くの日本のクリエイターは、ヨーロッパに比べてその意識が希薄な気がします。個人的な感覚や感情をベースに制作している……。「私たち」と「私」の差というか……。 ------------ 【ホロコーストと記憶】 ![]() 小野: あの中に入っていくことで、現実の都市との関連性が一切断ち切られてしまう。床も平らではないし、自分がどこにいるか、自分の立ち位置があいまいになり迷ってしまう。非常に不安感に駆られる。それと共通していると思ったのが、リベスキンドのユダヤ博物館の中庭です。方形の庭に石の支柱が並んで立っていて、床が傾斜しているんです。その庭に入り込むと、平衡感覚が狂ってしまい、気分が悪くなる人もいる。アイゼンマンの「ホロコースト記念碑」とリベスキンドの中庭の共通性は、安定した状態にあった自己の存在が、崩され揺らいでしまうところだと思います。 プファイファー: アイゼンマンの「ホロコースト記念碑」が観光名所としても使われていることには議論もありますが、たくさんの人に見られることは大変良いことだと思います。また、ベルリンにはもうひとつ別の記憶の文化があります。ユダヤ人家族が住んでいた家に、そこに住まわされた人々の名前が書かれた小さなプレートを掛けたものです。自分たちが、日常生活の中で、過去の記憶にもっと積極的につながっていくことができるわけです。私はアイゼンマンともリベスキンドとも建築家として一緒に仕事をしたことがありますが、建築という手段によって記憶という心理的なプロセスが実体化されているのは興味深いと思いますが、博物館や記念碑の形で「石化」することには疑問を抱いています。 ![]() 記憶するために様々な方法があるのと同様に、それに対する反応も様々です。ホロコーストの記念碑を建てるのか建てないのかについては様々な議論があり、極右の意見もある。過去について考える場合に、「これが正しい」と断定して言えるほど問題は簡単ではないと思います。 ------------ 【3.11と記憶】 ![]() 小野: 今回の東北の大震災を受けて、メモリアルを残すべきだという意見と、いやそんなことは早く忘れてしまいたい、思い出すのもつらい、という意見との間で、大きく議論が分かれています。具体的なものとしては、船が残されたりしていますが、被災者の方からは抵抗があるとも聞いています。その辺りは小崎さんも詳しいのではないでしょうか。 小崎: 私はあいちトリエンナーレ2013で舞台芸術のプロデューサーを務めましたが、トリエンナーレの全体テーマは「揺れる大地」でした。名古屋は被災地から何百キロも離れていますが、芸術監督で建築家・建築史家の五十嵐太郎さんは、あえてそのテーマを貫いてやろうとしたんです。五十嵐さんは東北大学で教えていらして、建築家・建築史家として「やはり、メモリアルは残すべきだ」と強く言っておられました。というのは、人間は記憶の生き物であると同時に忘却の生き物でもあって、非常に忘れやすいからです。明治以来、4回も津波に襲われても、いつの間にか忘れて、学習しないで、本来なら人が住めない所にもマンションを建てて、被害を広げてしまったわけです。 ------------ 【記憶・記録をいかに伝達するか】 ![]() ![]() それから、小崎さんがおっしゃったように、今はiPhoneで誰でも映像が撮れるようになり、記録することが簡単な時代になって、ジャーナリストよりも先に素人が衝撃の瞬間を撮るような時代になってきた。また、集団の記憶が共有できない時代になってきているので、個人の意識が重要になるのではと思います。 プファイファー: これからの課題は、編集ということだと思います。つまり、膨大で平坦なデータを処理し、何が重要でどこがピークなのかを取り出す役割が、我々クリエイターや建築家にも必要になってくると思います。 小野: 記憶のアーカイブについて、これから考えていかなければならないと思います。これだけ増えたイメージをどう伝達するかという方法については僕はまだわからないのですが、膨大なイメージを読み解いて有用な記録として読み込んでいくリテラシーが重要になるだろうし、それをどのような形でアーカイブするのかも考える必要があると思います。 さらに、移動するアーカイブというものが考えられるでしょう。ある地域や国でアーカイブが不可能になって記憶が失われるときに、アーカイブの移動が必要だろうし、グローバルな視点でアーカイブを作っていく作業がこれからの課題ではないかと考えています。 ![]() コープマン: 記憶することよりも、意識から排除して自分たちを守っていくことのほうがむしろ簡単なのかもしれません。また、私たちは日々メディアに接する中で、非常にたくさんの情報に対処しなければなりません。その際、対処の仕方は様々です。しかしながら、思い出す、もしくは、選ぶという行為は人間にとって同じくらい難しい課題なのだと思います。 小崎: 今までの皆さんのお話の中でいくつかキーワードが出てきました。「個人の意識」「リテラシー」「編集」という言葉です。意識から排除することは簡単だという話がありましたが、現代の脳科学によれば、すべてのことを記憶してしまえる人は病的な状況にあり、非常に苦痛だということです。つまり我々は、生きながらえるために忘れる、取捨選択をしなければならない。ただその際には、個々人がその能力を磨く必要があるし、クリエイターはいろいろな情報を選択して、適切な情報を世の中にアウトプットしていかなければならない、そんな時代なのですね。皆さんはクリエイターとして、そういうことをこれからもやっていかれると思います。 ------------ 会場からの質問: 記憶と記録、という言葉のそれぞれの定義づけが出来ていないのではないでしょうか。 プファイファー: このふたつを分けることは、大変難しいと思います。例えば、ベルリンの壁は、過去に何が行われたかについての警告を発するという意味で一部分が残されていますが、様々な利害が反映されています。記録するということ、客観的に何かを残すということには、体系的なアプローチもあるし、建築やアーカイブもありますが、これらは人間が主観的な視点を持って行う行為です。ですから、記憶と記録を対極として見るのではなく、常に政治的、社会的要素を含んだ、互いに結びついたふたつの領域であると思います。 コープマン: 記憶と記録についてですが、ひとつの出来事はそれぞれの個人にとって受け止め方も違います。実際に起きたことを記録して編集すること自体が、個人のフィルターを通しています。ですから、同じひとつの出来事からでも、私たちはそれぞれ異なる多様な現実、つまり複数形の物語を体験するのです。 ![]() 小崎: ベルリンにも、コペンハーゲンにも、アメリカにもユダヤ博物館があります。ホロコーストと比べられるかどうかはわかりませんが、日本にもナショナル・コリアン・ミュージアムがあってもいいかもしれませんね。 ハルトマン: 記憶と記録についてですが、アクティブな行為、つまり意識的に何かを思い出すこともあれば、外からの刺激によって無意識的に思い出すこともある。そのときにドキュメンテーションを見ることが、過去を思い出す手助けになると思います。 編集: 高嶋慈 写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 "【ハイライト】 2014/9/23, Creators@Kamogawa 座談会「記憶と記録」" vollständig lesen
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Über den BlogIn der Künstlerresidenz am Entenfluss (kamo=Ente, gawa=Fluss) wohnen und arbeiten jährlich 12 KünstlerInnen aus Deutschland.
Informieren Sie sich über ihre Aktivitäten und erleben Sie die Villa Kamogawa als kreative Plattform deutsch-japanischer Kulturbegegnung! ブログについて 鴨川のほとりのヴィラ鴨川では、年間約12名のドイツの芸術家たちが滞在して、様々な創作活動を行っています。 ヴィラ鴨川の活動や催し物、レジデントの暮らしをテーマに綴ります。 Weitere InfosDen Blog abbonierenÜber unsGoethe-Institut Villa Kamogawa
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