Goethe-Institut Mittwoch, 18. Mai 2016【YouTube】 2016/4/2, Creators@Kamogawa 座談会 『現実を創作に変えるまで』 „Von der Realität zum Werk“
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Creators@Kamogawaは、日本とドイツのクリエイターがくつろいだ雰囲気でアートを語り合うイベントシリーズです。2016年4月2日のテーマは、『現実を創作に変えるまで』。 「突然のひらめき」という言葉がありますが、芸術作品が無から生じることはありえません。突然であったにせよ、ひらめいたアイディアは何らかの体験や記憶に基づいているはずです。では創作の源が社会状況に由来する場合、現実に起こった事件や事象は、どのように作品に取り込まれるのでしょうか。素材を分析し、加工し、変形するプロセスは、表現者個人によって、あるいは表現のジャンルによって、どのように異なるのでしょうか。 2016年3月、最新作『部屋に流れる時間の旅』をKYOTO EXPERIMENTで発表する劇団チェルフィッチュ主宰の岡田利規氏(演劇作家、小説家)と、同作品の音・舞台美術を手がける京都気鋭の美術家・久門剛史氏をゲストに迎え、1月中旬~4月中旬までヴィラ鴨川で滞在制作中のドイツ人芸術家4人が、アートジャーナリスト小崎哲哉氏の司会のもと、意見を交わしました。 - ビデオ Creators@Kamogawa 座談会 『現実を創作に変えるまで』 (11分) "【YouTube】 2016/4/2, Creators@Kamogawa 座談会 『現実を創作に変えるまで』 „Von der Realität zum Werk“ " vollständig lesen
Geschrieben von Villa Kamogawa
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【ハイライト】 2016/4/2, Creators@Kamogawa 座談会 『現実を創作に変えるまで』
2016年1月中旬~4月中旬までヴィラ鴨川に滞在するドイツ人芸術家4人が、現実に起こった事件や事象を創作に取り込むプロセスについて、表現ジャンルや表現者個人の相違について、議論を行ないました。登壇アーティストは、ハネス・マイヤー(建築家)、ティモ・ヘルプスト(美術家)、アンドレアス・シュルツェ(美術家)、パウラ・ロソレン(振付家、ダンサー)。ゲストは、3月に最新作『部屋に流れる時間の旅』をKYOTO EXPERIMENTで発表した劇団チェルフィッチュ主宰の岡田利規(演劇作家、小説家)と、同作品の音・舞台美術を手がける京都気鋭の美術家・久門剛史。アートジャーナリスト・小崎哲哉の司会のもと、活発な意見交換が交わされました。(敬称略)
---------- ![]() 【チェルフィッチュの新作『部屋に流れる時間の旅』について】 小崎: チェルフィッチュは先日、KYOTO EXPERIMENTで新作『部屋に流れる時間の旅』を上演しました。岡田さんは近年、震災後の日本社会をテーマにした創作が多いと思います。今回の新作について、皆さんに説明して下さいますか。 ![]() この作品では「希望」を扱っていますが、観客にその希望に共感してもらって、希望を抱えて劇場を出てほしいという狙いはありません。というか、それができないような仕組みの作品であり、共感や共有ができない類の希望を扱った作品だと考えています。なぜなら、今の私たちがもう感じることができなくなってしまった希望だからです。 小崎: 続いて久門さんに伺います。今回、岡田さんと初めて一緒に仕事をされて、舞台美術と音を手がけられました。久門さんの作品は主にインスタレーションで、今回は岡田さんによる明確なテーマがあったわけですが、参加されてどう感じましたか。 ![]() シュルツェ: 私は、この作品を見ることができて、大変嬉しかったです。私はどちらかと言うと、字幕の台詞よりも、俳優に注目しました。私は3人の登場人物とも、普通に振舞っているようですが、実際はショックを受けている状態のように見えました。半ば死んだような死んでいないような人物という印象を受け、他人が関わろうとしても、なかなかアクセスできないというふうに受け取りました。 ![]() 【それぞれの表現ジャンルと社会的事象へのアプローチ】 小崎: 次に、表現のジャンルについて話したいと思います。今日のテーマに関して、言語的な要素を多く含む表現と、非言語的な要素の多い表現とに分けると、6人の参加者が3対3に分かれると思います。文学・演劇・映画は、台詞を伴う以上、言語的な作品だと言えます。また、デュシャン以降の現代アートは、視覚的なインパクトとともに作家の思想や哲学を読み取ることが要求されます。これらのジャンルでは、言語的な方法で、社会的な現実を創作に変えることが可能になります。一方、今日の参加者でいうと、マイヤーさんの建築やロソレンさんのダンス、久門さんの音楽は、非言語的な表現として区別されると思います。 例えば、ロソレンさんは、オーラルヒストリー的な取材をしてダンス作品をつくっておられますが、社会的な事象を作品に取り込むことはありますか。 ![]() ただ、比喩をうまく見つけることで、社会的事象をダンスに置き換えることができると思います。比喩は、ダンスにとって非常に重要です。例えば、もはや古典ですが、ピナ・バウシュのタンツテアターは、反復を利用したり、テキストを織り交ぜたりすることで、社会的な問題や人間の抱える問題をダンスで表現できていたと思います。 小崎: ヘルプストさんに伺います。現代美術作家ですが、身体表現にも関心を持ち、「コレオグラフィー」という言葉を使ってアート作品をつくっておられます。社会的な事象に影響を受けたり、材を取って制作したりすることはありますか。 ![]() 一方、私のビデオ作品には、社会的な出来事が反映されています。例えば、エジプトのアーティストと一緒につくった作品は、2013年にカイロで軍事クーデターが起こった後、外出禁止令が出たことがきっかけです。法律やルールによる制限から出てくる動きを、私が生活している空間に置き換えてみた作品です。先ほど、久門さんが話されたように、私も、アーティストとして表現することの「責任」について考えました。私はカイロから遠く離れた国にいて、メディアを通して見ているだけなのに、作品をつくることの責任が負えるだろうか。カイロにいる作家が政治情勢について考えていることに対して、同じ国や場所にいないからこそ私ができるサポートとは何か。これらの問いの答えは出ていませんが、私たちは歴史に対してどのような共通の責任を負っているのか、一緒に考えようという問いかけが出てきたことが、この作品の重要な点だったと思います。 ジャーナリスティックなアプローチをして、社会的な問題を作品に取り込もうとするとき、単にテーマとして取り上げるだけでなく、その問題とどう向き合うのかという問いかけをしていると思います。社会的な問題を反映するには、言語的な要素と並んで、非言語的な要素も重要だと思うので、私自身の表現はどちらかのグループに分けられないと思います。 ![]() また、私にとって建築の目標は、現実を超えて未来を構築することです。その建物の年数が25年だけだとしても、25年間の未来に向かっているわけです。だから建築家には、現在の私たちがイメージしていることを超えて、想像力を持って、未来へ向かったものをつくる責任があります。より多くの人々や、ひとつの社会のためにつくることが、理想的な建築だと思います。 小崎: シュルツェさんに伺います。プロフィールには「メディア社会に過剰にあふれる情報をテーマに創作を行なう」とありますが、今日の議論の背景には、現代社会のメディア状況が深く関わっていると思います。これまでの議論やご自身の作品に関して、何かコメントをいただけますか。 ![]() 私たちは普段、ニュースや新聞から情報を調達し、何十回と映像を見る中で、自分を安心させているのかもしれません。しかしそこからは、出来事に対する、自分の中の衝動や大きな気持ちの動きは生まれてきません。うまく言葉にすることができないまま、自分の中の何かを外に出すことができない。それは、表現するための正しい道具を手にしていないからだと思います。私は、世界で起きていることに対して、何もできない状態を表現するための言語、縛られて動けない状況から脱するための言語を一生懸命探しているのだと思います。その「言語」は言語的なものに限らず、感覚なども含まれます。それは結果をかたちにする試みではなくて、むしろ思考のプロセスの表現です。 マイヤー: 今日のテーマは「現実を創作に変えるまで」ですが、現実の先には創作があるという前提になっていますよね。ただ私は、現実から創作しようとしてもうまくいかないことのほうが多いのではないかと思います。「現実から創作へ」という1本のラインが中断されて、そこに別のフォルムや別のプロセスを見出していく必要があるのではないでしょうか。なぜなら、現実はあまりにも複雑で、現実から創作へという一直線上にはないと思うからです。 シュルツェ: 何か、そこに抵抗するようなものを見出す必要があると思います。日常的に様々な出来事が起きていて、それを何とか脇へ押しやってしまおうという動きがある中で、そうした疎外の動きへの抵抗を打ち出すことが重要でしょう。つまり、現実に対して何か別のフォルムを対抗策として打ち出すこと、その現実に名前を付けるような何か、あるいは現実と競合するような何かです。 ![]() また、先ほど、「現実と競合する」という表現をシュルツェさんがされましたが、それを自分の言葉で置き換えると、僕にとってはフィクションということです。フィクションは、現実に対して競合するオルタナティブとして機能できると考えています。もちろん、そうしたフィクションの機能を人類はとっくに発見しています。でも僕は震災をきっかけとして、そのことを僕個人として発見しました。そしてそれ以来、フィクションに興味が持てるようになりました。そして、フィクションをつくることと、未来に向けてつくることは、僕にとって、ほぼ同じことを、少し違う角度から言い換えているだけです。 未来へ向けたものを提示することで、見た人が何かを考える。そのことを通して何かが生まれてくる。そのことを僕は非常にポジティブなことだと信じています。たとえ時代も場所も遠く離れた出来事からつくられた作品であっても、自分に何らかのかたちで働きかけてくるとき、僕という個人が置かれているコンテクストと結び付けて、5年前に日本で起こった震災と関連させて考えることができます。それは、作家の意図とは全く関係なく起こります。そうしたことを僕はすごく信じていて、なぜならそうした経験を、ひとりの受け手としていっぱいしているからです。 今日、館長が最初のあいさつで、「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」というアドルノの言葉を紹介しました。でも、未来に向けてつくるという気持ちで制作することは、そうした批判的な発言に対して無知や無関心を示すのではなく、「それでも、現実へのリアクションとして作品をつくってもいい」と思う根拠として僕自身は考えています。 ![]() 編集: 高嶋慈 写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
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Über den BlogIn der Künstlerresidenz am Entenfluss (kamo=Ente, gawa=Fluss) wohnen und arbeiten jährlich 12 KünstlerInnen aus Deutschland.
Informieren Sie sich über ihre Aktivitäten und erleben Sie die Villa Kamogawa als kreative Plattform deutsch-japanischer Kulturbegegnung! ブログについて 鴨川のほとりのヴィラ鴨川では、年間約12名のドイツの芸術家たちが滞在して、様々な創作活動を行っています。 ヴィラ鴨川の活動や催し物、レジデントの暮らしをテーマに綴ります。 Weitere InfosDen Blog abbonierenÜber unsGoethe-Institut Villa Kamogawa
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