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ドレーゲカンプ: 私はラジオドラマをつくる時、時間的な構造について考えています。元々はストーリーがありますが、異なる時間を繋ぎ合わせたり、コラージュ的に重ねたりすることで、直線的な時間を壊すことができます。また、『病気の家』という作品では、アナグラム的な詩を使いました。アナグラムでは元々のテクストが壊されているので、直線的なものではなくなります。私たちがやりたいのは、時間的な構造と言語の音を壊すことです。日本では、水琴窟の音を言語と合わせようと思っています。そこからどんな摩擦が起きるのかに期待しています。
小崎: テクストと映像のインタラクションをさらに音楽に変換するということでは、三浦さんも地点の演出で同じようなことをされていますよね。例えば、『ファッツァー』では、空間現代というバンドを起用して、ブレヒトの作品世界を演出されています。また、『CHITENの近未来語』では、当日の新聞をテクストとして使われていて、今日のテーマ「偶然」に直結すると思います。なぜこうした試みをされているのでしょうか。

それを一気に解決したのが、ブレヒトの『ファッツァー』という作品で、空間現代というバンドにナマ演奏をしてもらいました。通常、劇音楽は、台詞に合わせて演奏の入るタイミングが決まっていますが、それを封印して、彼らは彼らで演奏したら止まらない。ただ彼らの音楽は特徴的で、「間(ま)」がいっぱいあります。その「間(ま)」に、俳優が台詞を言う。ただし、音と台詞が衝突した瞬間、その俳優は死ぬ。そういう一種のゲームみたいなことを思いつき、非常にスリリングな経験をしました。
また、『CHITENの近未来語』では当日の新聞を使います。ここは政治ネタ、次に天皇ネタ、ここは広告を読むというように構成は決まっているのですが、語られる中身が上演の度に変わります。一般的な演劇の楽しみ方は、台詞の中身や言葉に強度があって、文学性があることだと思います。それがうまく成功した場合に人が感動するメカニズムがあるのならば、別のメカニズムもあるのではないか。つまり、新聞の内容だって、「今日はこんなネタか、日本ってつまらないな」と思うこと自体が、もしかしたら豊かなことなんじゃないか。テクストの中身が問題ではなくて、演劇公演の形式そのものが観客に伝われば、内容が面白くなくてもいいのではないかという、今までとは少し違う楽しみ方を発見できたと思っています。
小崎: テプファーさんは、ハンス・ベルメールのような球体関節人形を作って舞台にのせ、さらに、ご自身に似せた分身として共演されています。生身の身体と人形のインタラクションを行なっている意図について、説明してくださいますか。

小崎: 今のお話の中で面白いキーワードが出てきました。インタラクション、対話、予測不可能性。
次にヘアトリッヒさんと宮永さんに伺います。ヘアトリッヒさんは、《クロノシュレッダー》という時間をテーマにした作品をつくっていて、宮永さんの関心とも共通するのではと思います。お互いの作品について思ったことを聞かせてください。

《クロノシュレッダー》は偶然に任せているわけではなく、1日分のカレンダーの紙がちょうど24時間かけてシュレッダーにかけられていくようにプログラミング制御されています。見ているあいだには何も変化が起きないくらいの動きですが、2週間後に見に行ったら、「こんなに時間が経ったんだ」と思うくらいの紙の量が出来ています。ずっと見ていても面白くないけれど、繰り返し訪れると面白い作品です。

私の作品は時間的な要素が強いと言われます。私は「ほとんど変わらないけど変わるかもしれない」という時間の扱い方をしていますが、その変化の痕跡を見て、人は「時間」と呼ぶのだろうと思います。私自身は変化している状態を見せたいのではなくて、その変化している状態の時間から離れた時間、つまり現在進んでいるリアルタイムの時間ではなく、過去でもなく未来でもない、どこでもない時間ということを考えています。
小崎: ヴィトマンさんに伺います。今回のプロジェクトでは、ハイデッガーに触れると聞きましたが、彼はまさに時間について考えた哲学者ですよね。ヴィトマンさんのプロジェクトも、時間と関係があるのでしょうか。

映画をつくる時には、常に時計で測るわけではありません。長く感じるのか、圧縮されていると感じるのか、主観的な時間の捉え方に影響する要素は非常に複雑だと思います。
小崎: 今日のプレゼンテーションでは、たまたま通訳を介さずに会話を聞いていて、分からない言葉が面白かったので取り入れたと話されていました。ヴィトマンさんの場合、最終的には映像として作品を固定化するわけですが、こうした偶然の要素を盛り込もうという思いはどのくらいありますか。

ただし、何かしらのハプニングは起こるわけで、それによって、もう一度最初からやり直そうとはしません。ハプニングが起こり得ることを踏まえた上で、もしかしたらそのハプニングこそが今この瞬間のベストモーメントになったと思えるような受け皿を自分の中に用意したいと思います。それを生産的な方向に変えられるのか、という反応ができるようにしておきたい。最終的には信頼することが非常に大切だと思います。自分がどれだけ色々なことを受け入れられるかということに対する、自分自身への信頼です。
今回のプロジェクトでは、翻訳とか通訳について取り上げています。普通は、自分の話す言葉がうまく訳されないと困りますが、今回は、ハイデッガーのテクストが非常に難解なので、本来の意味とは違うものが派生したり、誤解が生まれたりすることをむしろ楽しみにしています。
小崎: 先ほどのテプファーさんの発言で、「予測不可能性」という言葉が出てきました。音楽でも、ジョン・ケージ、ジャズやロックでのインプロヴィゼーションなどに限らず、優れた音楽家は、演奏中にアクシデントが起こっても、それを利用してもっと面白いことをやる場合がありますよね。ヴェーバーさんも、そうした偶然を取り入れたりするのでしょうか。

小崎: 同じ質問を、三浦さんにも聞いてみたいのですが。地点の俳優さんを見ると、どこまでが演出で、どこまでが即興なのか分からない部分があります。稽古場やある日のステージで起こったことを、演出家としてダメ出しをせずにそのまま利用することもあるのでしょうか。

僕の場合はまずテクストありきなので、意味がないということも含めてテクスト=意味ということが前提にあります。それと、皆さんの話を聞いていて決定的に違うなと思うのは、暴力的に言うと、演劇の場合、俳優つまり人が素材なので、それをコントロールしようとする時に、僕が神になってしまわないように一番気をつけています。
演劇の場合、基本的には、劇場で、時間も空間も完璧に制御された状態をつくるわけです。俳優なので、もちろん即興的な部分もありますが、その即興に対してコントロールします。むしろ即興らしく見せるためにダメ出しもするし、「ここは昨日に負けている」とか「そこはなぜ間(ま)が待てないのか」というダメ出しもします。これは絶対的なダメ出しではなくて、相対的なダメ出しです。そういう形で作品を育てているという感覚が正直なところです。
小崎: もう1つ質問です。先ほど、「空間現代のバンドが出す音と台詞がぶつかったら負けだ」という話がありましたが、音楽家は制御するのですか。
三浦: 空間現代は、楽譜を使わない演奏なのでラッキーでしたが、楽譜がある音楽家と一緒にやるのは難しいですね。彼らにとっては楽譜が神ですから。
音楽家とコラボレーションする場合、気分というものが共有されていればいいんです。その時、クラシック音楽を批判するつもりはないけど、五線譜の気分が通用すると思うなよ、ということなんです。そうじゃないアーティストはたくさんいるし、『光のない。』で現代音楽作曲家の三輪眞弘さんと一緒にやった時は、うまくいったと思います。三輪さんの音楽はゲームのようにルールが制御されているのですが、中身は全部即興なんです。また、電気マッサージ器を改造して、電気が流れると腕の筋肉が震えて、鈴が鳴る。そこに台詞をかぶせていく。そうした気分が、観客も含めて共有されているわけです。そういう意味での音楽は、舞台芸術では力を発揮しやすいのかもしれません。
ヴェーバー: ぜひ三浦さんと一緒に仕事してみたいです。音楽家、特に楽譜を使わず、即興的な音楽をつくる人は制御するのが難しいと思います。なぜかというと、彼らの使う言語が全く違っているからです。彼らに対して、この時点でこういうことが起きてほしいと説明するのはとても難しい。でも、試みることは面白いと思います。
小崎: ヘアトリッヒさんも、コラボレーションされることはありますか。

小崎: 最後に、鑑賞者として見る立場から、ぜひ皆さんに聞いてみたいことがあります。
つくった作品を観客が見たり、批評家が見て批評したりする時に、「誤読」ということが起こると思います。創作意図とは違うものを観客や批評家が感じてしまう。これに対してどう思われますか。
ヴェーバー: 私は、「誤読」はないと思います。つくった作品を観客に体感・体験してもらう段階になると制御不可能なので、それぞれの見方があって良いと思います。
テプファー: 誤解されるということに対して、それほど気にしていません。むしろ、観客は、鏡として何かを返してくれる存在です。その人が持っている背景次第で、受け取り方も様々です。ネガティブな反応であっても、建設的なことだと思うので、次の作品に取り入れたいと思います。
宮永: 私の作品は、「儚い」という言葉で言われることが多いのですが、「消えるのではなくて、変わっているだけだ」と思っています。変わっていける柔軟さとかしなやかさ、変わることは次の安定を取り戻すための1つの動きであると考えています。そういう捉え方を私が提案することで、感覚の広がりのようなものが生まれたら良いなと思っています。

編集: 高嶋慈
写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川