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Creators@Kamogawaは、日本とドイツのクリエイターが、Barのようなくつろいだ雰囲気で、アートを語り合うイベントシリーズ。2015年3月28日のテーマは、『PARASOPHIAクロスレビュー』。京都で初めてとなる大規模な現代芸術の国際展「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」が、2015年3月から5月に開催されました。ヴィラ鴨川に滞在中のドイツ人芸術家4人は、京都の国際展を見て何を思うのか?ヴェネチア、台北、あいちなど国内外の国際展のキュレーションも手掛ける写真家の港 千尋氏や、関西のアートシーンの変遷をつぶさに見てきたアートプロデューサーの原 久子氏をゲストに迎え、外野席から自由奔放なトークを繰り広げました。
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Freitag, 22. Mai 2015
【YouTube】 2015/3/28, Creators@Kamogawa 座談会 『PARASOPHIA クロスレビュー』 „PARASOPHIA Cross Review“
Geschrieben von Villa Kamogawa
um
04:55
【ハイライト】 2015/3/28, Creators@Kamogawa 座談会 『PARASOPHIA クロスレビュー』
京都で初めての大規模な現代芸術の国際展「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」(3月7日~5月10日、以下「PARASOPHIA」と表記)が開催されました。ヴェネチア、台北、あいちなど国内外の国際展のキュレーションも手掛ける港千尋(写真家)と、関西のアートシーンの変遷をつぶさに見てきた原久子(アートプロデューサー)をゲストに迎え、1月中旬~4月中旬までヴィラ鴨川に滞在するドイツ人クリエイター4人が、PARASOPHIAをどう見たかについて語り合いました。参加クリエイターは、クリス・ビアル(美術作家) 、ミヒャエル・ハンスマイヤー(建築家)、ヤン・クロップフライシュ(美術作家)、ゲジーネ・シュミット(劇作家、ドラマトゥルク)。それぞれが関心を持った作品、批判や改善点、未来の国際展の姿などについて活発な意見が交わされました。(敬称略)
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小崎: PARASOPHIAをご覧になって、色々な意見があるかと思います。むしろ、賛否両論あった方が望ましいので、今日は、将来のための建設的なトークができればと思います。全体の枠組みについてのディスカッションの前に、皆さんがPARASOPHIAを見て関心を持った作品とその理由について伺います。
シュミット: 特にアラン・セクーラの作品《催涙ガスを待ちながら》が気になりました。81枚のスライド写真とテキストから構成された作品です。私はPARASOPHIAで初めてこの写真家に出会いました。この作品は、1999年に起きた、第3回世界貿易機関閣僚会議に対する抗議運動を撮影したものです。作品のアイデアは、この経済のグローバル化に対する反対運動を、明け方から夜中まで追いかけて撮影することと、フラッシュやズームやオートフォーカスを使わず、またプレスの腕章も付けずに撮影するということです。
このアイデアにとても深い感銘を受けました。つまり、「反フォトジャーナリズム」という立場に立ち、81枚のスライドを順に見せるというセリー的な手法がとても印象深かったのです。というのは、この見せ方によって、形としての写真芸術や写真ジャーナリズムではなくて、写真そのものの中身が前面に押し出され、観客がそれに向き合うことができるからです。
私の専門はドキュメンタリー演劇です。ドキュメンタリー演劇は60年代からありましたが、道徳的でした。しかし最近では、正しい答えを提示するのではなく、対立する立場を両方示して、観客に自分で考えて答えを導き出してもらうという考え方が主流です。セクーラも同じことを考えていたのではと思います。もちろん彼も写真家としてある姿勢を持っているのだけど、それが中心に据えられているわけではありません。どちらかに偏らず、何かを押し付けない姿勢が私の作品作りとも重なっていて、大変魅力的でした。
港: 今回のPARASOPHIAは、私自身が2016年のあいちトリエンナーレの芸術監督になることが決まってから見たので、主催者側の意識や苦労した点なども気になり、今までの国際展の鑑賞の仕方とは違ったように思います。特別な思いで見た作品は、シュミットさんと同じく、アラン・セクーラの作品です。
セクーラは、写真を撮りながら、写真の理論的著作を書き続けてきた方で、私にとって先輩にあたる存在です。一昨年に彼が亡くなった時は大変悲しい思いをしました。《催涙ガスを待ちながら》は、彼の一番生々しい写真で、しかもポジフィルムなので、もしかすると彼が撮ったカメラから取り出されたオリジナルのフィルムなのかもしれません。そうすると彼が特定の場所で経験した行動が、そのままフィルムという物質を通して自分に伝わるような気もして、勇気づけられると同時に、写真を撮りながら考えていくことの意味をもう一度考えさせられました。タイトルが意味するように、催涙ガスが飛んでくる所にあのセクーラがいたということの意味は大きい。「PARASOPHIAには特定のテーマはない」と聞きましたが、このセクーラの作品からもう一度全体を思い返してみると、やはりアーティストが自分の身体をもって社会の中に出て行く、ということは一つの共通点ではないかと思いました。
ハンスマイヤー: ベラスケスの《ラス・メニーナス》を題材にした森村泰昌さんの作品が気になりました。1枚の写真だけではなく、複数の写真から構成された作品である点が面白いと思いました。また、京都文化博物館の空間の中にうまく位置づけられていました。視点やパースペクティブに対して向き合っている、ゲームのような作品だと思います。見ている自分も作品の一部になったり、作品を外から見たり、作品の中に取り込まれたりします。この視点がくるくる変わるということが、私が建築家として非常に面白いと思った点です。
原: 私はあいちトリエンナーレ2010に関わったこともあり、港さんと同様、一観客としてPARASOPHIAを見る部分と、主催者あるいは運営側の目線で見る部分がありました。一番気になった作品は、石橋義正さんの《憧れのボディ/bodhi》で、最新技術を用いた映像インスタレーションです。石橋さんの過去作品の文脈を知らなくても、エンターテインメント的な要素も含めて楽しめる作品だと思います。シングルチャンネルの映像作品の場合は、ある1つの時間軸だけを見ていくわけですが、《憧れのボディ/bodhi》では、会場を回遊させたり、高い壁を見上げさせたりするなど、空間を意識的に使っていて、見る側の身体的な行為を伴わせることで、観客にここでしか味わえないリアルな体験をさせていました。そして、男女の愛憎、日常と非日常といった対極的なものを見せられた最後に鏡があって、そこに自分自身が投影される体験をする、非常に印象深い作品でした。
ビアル: 私は特にアナ・トーフの作品《ファミリー・プロット》に感動しました。まず惹かれたのが美しさです。モノクロの版画が25個のペアになっていて、それぞれのペアの中に2つのレイヤーがありました。第一のレイヤーは、帝国主義的な人名が記されたポートレートで、その手前にもう1つのレイヤーが透けて見えていて、花や植物のディテールが印刷されていました。これは、その人物を象徴する花や植物であることが分かりました。ペアのもう片方は昔の世界地図で、非常にたくさんの情報が描かれていました。じっくり見てみると、またもう1つのレイヤーが見えてきて、植民地主義や帝国主義について考えさせられました。アナ・トーフは丹念な調査を行って制作する作家ですが、観客に見る自由を与えてくれて、自分なりの読み方を見つけていける作品であることに非常に惹かれました。特に植民地主義や帝国主義については、京都市美術館が帝冠様式で建てられており、日本の帝国主義的な建築の中で見るという体験も面白かったです。
クロップフライシュ: 崇仁地区で見たヘフナー/ザックスの作品が面白かったです。フェンスに囲まれて中に入れない空き地がたくさんあって、何かを排除しようとする印象を受けざるを得ない場所でした。この地区の歴史には、同和問題という非常に大きなタブーがあります。こうした地区にアーティストが呼ばれると、板ばさみ状態になることもあります。作品によってこの地区の価値を高めようとしても、やはり歴史を無視するわけにはいかないからです。ヘフナー/ザックスは、本来は住民がちゃんと使えるようなオープンのスペースをつくろうとしたのかもしれませんが、実際にはフェンスに囲まれて誰も利用できない状態になっています。でも、ビエンナーレのような国際展では、政治と歴史がぶつかるこのような場所が一番面白いと思います。
ハンスマイヤー: 会場の導線について意見があります。美術展でも建築展でもそうですが、特にPARASOPHIAでは導線がはっきり決まっていて、決められたコース以外の方向には行かれない。おそらくキュレーターが展示の順番を熟考して並べたのだと思いますが、私は、隣り合った作品同士の関連性を見出すのがすごく難しかったので、それについて皆さんの意見を聞きたいです。
原: 私も、決められた方向に歩かされることに対して、ある種のストレスを感じるとともに、前後の作品同士の関連性を読み解こうとしても、簡単には理解できませんでした。京都市美術館に3回行って、行きつ戻りつしたり、違う順番で見たりしましたが、やはり展覧会全体と把握するのがすごく難しかった。PARASOPHIA全体のテーマはないけれども、最後にあるセクーラの作品までの流れをどう見ていくのか、ある種の物語を観客が読み解いていくのだと思いますが、理解を少し促してくれるようなヒントが潜ませてあると、ありがたかったです。
港: 導線をつくる際には、作品のテーマや関連性とともに、観客の集中力や疲労度など、身体的な経験も考慮すべきだと思います。例えば、京都市美術館の2階に上ると、まずヨースト・コナインの巨大な映像作品があります。分数も長く、内容も面白いので、ついつい見てしまう。暗い部屋で巨大なプロジェクションに慣れて部屋を出たら、次の展示室がアナ・トーフで、明るい空間に緻密で真っ黒い版画が並んでいて、目を凝らさないとよく見えないので、ものすごく疲れます。もちろん、スペースの制約やサイズもあると思いますが、今回の京都市美術館の全体を見ると、どれだけそうしたことが考えられていたのかは疑問です。
小崎: 今までの話で、それぞれの方がPARASOPHIAに感じた良い点と問題点が浮かび上がってきたと思います。
小崎: 後半では、PARASOPHIAの改善点など建設的な意見も含めて、国際展はどうあるべきかなど、国際展全般についての話をしたいと思います。
1つは、国際展がいまや世界中に数百あると言われている中で、21世紀に京都で国際展をやることにどのような意味があるのだろうかという点です。
2つめは、この国際展は誰のために開かれているのだろうか。観客のためといっても、専門家にポイントを置く、あるいはもっと一般的に市民全般に楽しんでもらう形もありますし、具体的な観客ではなくて、大文字の美術史のためにつくる意義があるという考え方もあるかもしれません。
ハンスマイヤー: 京都で大規模な国際展を行うことに関しては、私は相反する感情を持っています。京都のように素晴らしい伝統と歴史のある街で、あえて歴史から離れて現代芸術祭をやることはすごく良いことだと思います。でも他方で、京都にはやはり伝統と歴史があるので、PARASOPHIAは別に京都でやらなくてもよいのではという気もしました。皆さんは歴史との向きあい方をどう思いますか?
シュミット: 京都で国際芸術祭が開かれるということで、歴史や伝統との摩擦や対立が起きるのではと期待していました。35組のアーティストが事前にリサーチをして京都と向き合ったと聞きましたが、それはほとんど感じられませんでした。ケントリッジのように他の場所で素晴らしい作品が見られるアーティストをわざわざ呼ばなくてもいいのではないか、京都だからこそのものを期待していたのに、なかったと感じました。
ビアル: 私も、その点に違和感を覚えました。京都に既にある伝統的なもの、お寺や神社などと現代アートを折り合わせた試みがもっとあると思っていましたが、今は一方に現代アートがあり、他方に伝統的なものがあって、分かれてしまっています。でも、京都に反応したからこそ生まれた作品や、どちらの世界にも出会えるようなものであればよかったのにと思います。
ハンスマイヤー: でも一方で、京都のような町が歴史から解き放たれることも大切だと思います。私は京都に住んではいませんが、伝統や歴史の重みというイメージに限界があるのではないかとも思います。
小崎: 原さんに伺います。今日の参加者の中では、原さんは一番関西のアートシーンに詳しいと思います。その原さんから見て、今回のPARASOPHIAは、関西アートシーンの歴史の連続性の上にあるものとして感じられますか?
原: 全く関係がないわけではないと思います。今回が初の本格的な国際芸術祭ということで、これまで色々な国際展で見てきた作家をまた京都で見せられるのかという意見もありますが、そうした意見が言えるのはごく一部の専門家だと思います。今は美術大学の学生ですら美術館にあまり行かない中で、一般の市民の人たちが初めて出会う現代アートがこのようなものでよかったなと思えます。ただ、少し説明不足で不親切だという気もしています。歴史的・思想的な様々なことが作品の中に込められているので、子供向けのツアーなど、何か手がかりがあれば、もっと理解しやすいのにと思います。例えば、ある程度知識のある人や現代美術を見た経験が豊富な人には文脈が理解できるけれども、初めて現代美術に出会う人たちにとっては、ガイドブックを読むだけでは容易には理解し難いです。ただ作品自体は非常に質が高いので、そこをうまく使えば、PARASOPHIAという国際展が、美術を見るだけでなく、歴史や街を知る色々な機会になりうると思います。厳しい意見が多いですが、閉幕までの間にそれをどう伝えていくのかが、私たちジャーナリストの役割だと思います。
港: 原さんのご意見に同感です。ヴェネチア・ビエンナーレを始まりとすれば、国際芸術展の歴史はすでに100年以上あります。その100年の間に美術の持つ意味も変わってきて、その1つが教育的な役割です。私は2007年のヴェネチア・ビエンナーレに参加した時に、初めて、エデュケーショナルプログラムを作ってほしいと公式にビエンナーレ側から要請されました。つまり、ヴェネチアのような老舗の国際展ですら、ただ作品を見せるだけではなくて、それをどう伝えるか、どう共有するか、ということも展覧会の一部なんだと意識を変えてきました。その背景には、美術は知識の生産の一形態だという認識が、ある程度共有されてきたのだと思います。つまり、社会科学や自然科学だけが知識の生産ではなくて、美術もまたある種の知識の生産に関わるべきだし、それは映像芸術やドキュメンタリーも同じです。その知識の生産に、アーティストだけではなくて、それを見る市民、特に観客の大半を占める地域住民がともに関わっている。そのためには、アーティストが何を考えてこの作品を作ったのかをある程度知る必要があると思います。
その意味で、今回良かったと思うのは、京都市美術館の建物の歴史を見せた点です。素晴らしい建築ですが、京都在住の人も、建物全体を見る機会はあまりなかったと思います。あの建物が戦後の一時期、米軍に接収されていたことを丹念に資料で見せていた点に感心しました。美術を見ているすぐ真下に、日本の20世紀の歴史がまだそのまま残っているのです。崇仁地区もそうですが、ある土地に潜在しているものを掘り出して、共有することが知識の生産です。それに今回のPARASOPHIAは挑戦していると思いました。
クロップフライシュ: 今後、日本での国際展にとって一番大切なのは公共性だと思います。日本では、政治家が語っていても一方的で、本当に公共性の中での議論がない。公共性を大事なアプローチポイントとして盛り込んだ芸術祭がなされるべきだと思います。PARASOPHIAのプラス面としては、ボランティアの方が多数参加していたことは素晴らしいと思いました。対価を得ることなく芸術祭に参加したということは、それだけ市民の中に関心やポテンシャルがあることの素晴らしい表れだと思います。
編集: 高嶋慈
写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
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【関心を持ったPARASOPHIA出品作品】

シュミット: 特にアラン・セクーラの作品《催涙ガスを待ちながら》が気になりました。81枚のスライド写真とテキストから構成された作品です。私はPARASOPHIAで初めてこの写真家に出会いました。この作品は、1999年に起きた、第3回世界貿易機関閣僚会議に対する抗議運動を撮影したものです。作品のアイデアは、この経済のグローバル化に対する反対運動を、明け方から夜中まで追いかけて撮影することと、フラッシュやズームやオートフォーカスを使わず、またプレスの腕章も付けずに撮影するということです。
このアイデアにとても深い感銘を受けました。つまり、「反フォトジャーナリズム」という立場に立ち、81枚のスライドを順に見せるというセリー的な手法がとても印象深かったのです。というのは、この見せ方によって、形としての写真芸術や写真ジャーナリズムではなくて、写真そのものの中身が前面に押し出され、観客がそれに向き合うことができるからです。
私の専門はドキュメンタリー演劇です。ドキュメンタリー演劇は60年代からありましたが、道徳的でした。しかし最近では、正しい答えを提示するのではなく、対立する立場を両方示して、観客に自分で考えて答えを導き出してもらうという考え方が主流です。セクーラも同じことを考えていたのではと思います。もちろん彼も写真家としてある姿勢を持っているのだけど、それが中心に据えられているわけではありません。どちらかに偏らず、何かを押し付けない姿勢が私の作品作りとも重なっていて、大変魅力的でした。

セクーラは、写真を撮りながら、写真の理論的著作を書き続けてきた方で、私にとって先輩にあたる存在です。一昨年に彼が亡くなった時は大変悲しい思いをしました。《催涙ガスを待ちながら》は、彼の一番生々しい写真で、しかもポジフィルムなので、もしかすると彼が撮ったカメラから取り出されたオリジナルのフィルムなのかもしれません。そうすると彼が特定の場所で経験した行動が、そのままフィルムという物質を通して自分に伝わるような気もして、勇気づけられると同時に、写真を撮りながら考えていくことの意味をもう一度考えさせられました。タイトルが意味するように、催涙ガスが飛んでくる所にあのセクーラがいたということの意味は大きい。「PARASOPHIAには特定のテーマはない」と聞きましたが、このセクーラの作品からもう一度全体を思い返してみると、やはりアーティストが自分の身体をもって社会の中に出て行く、ということは一つの共通点ではないかと思いました。

原: 私はあいちトリエンナーレ2010に関わったこともあり、港さんと同様、一観客としてPARASOPHIAを見る部分と、主催者あるいは運営側の目線で見る部分がありました。一番気になった作品は、石橋義正さんの《憧れのボディ/bodhi》で、最新技術を用いた映像インスタレーションです。石橋さんの過去作品の文脈を知らなくても、エンターテインメント的な要素も含めて楽しめる作品だと思います。シングルチャンネルの映像作品の場合は、ある1つの時間軸だけを見ていくわけですが、《憧れのボディ/bodhi》では、会場を回遊させたり、高い壁を見上げさせたりするなど、空間を意識的に使っていて、見る側の身体的な行為を伴わせることで、観客にここでしか味わえないリアルな体験をさせていました。そして、男女の愛憎、日常と非日常といった対極的なものを見せられた最後に鏡があって、そこに自分自身が投影される体験をする、非常に印象深い作品でした。


【展覧会場の導線について】
ハンスマイヤー: 会場の導線について意見があります。美術展でも建築展でもそうですが、特にPARASOPHIAでは導線がはっきり決まっていて、決められたコース以外の方向には行かれない。おそらくキュレーターが展示の順番を熟考して並べたのだと思いますが、私は、隣り合った作品同士の関連性を見出すのがすごく難しかったので、それについて皆さんの意見を聞きたいです。

港: 導線をつくる際には、作品のテーマや関連性とともに、観客の集中力や疲労度など、身体的な経験も考慮すべきだと思います。例えば、京都市美術館の2階に上ると、まずヨースト・コナインの巨大な映像作品があります。分数も長く、内容も面白いので、ついつい見てしまう。暗い部屋で巨大なプロジェクションに慣れて部屋を出たら、次の展示室がアナ・トーフで、明るい空間に緻密で真っ黒い版画が並んでいて、目を凝らさないとよく見えないので、ものすごく疲れます。もちろん、スペースの制約やサイズもあると思いますが、今回の京都市美術館の全体を見ると、どれだけそうしたことが考えられていたのかは疑問です。
小崎: 今までの話で、それぞれの方がPARASOPHIAに感じた良い点と問題点が浮かび上がってきたと思います。
【国際展のあり方】
小崎: 後半では、PARASOPHIAの改善点など建設的な意見も含めて、国際展はどうあるべきかなど、国際展全般についての話をしたいと思います。
1つは、国際展がいまや世界中に数百あると言われている中で、21世紀に京都で国際展をやることにどのような意味があるのだろうかという点です。
2つめは、この国際展は誰のために開かれているのだろうか。観客のためといっても、専門家にポイントを置く、あるいはもっと一般的に市民全般に楽しんでもらう形もありますし、具体的な観客ではなくて、大文字の美術史のためにつくる意義があるという考え方もあるかもしれません。
ハンスマイヤー: 京都で大規模な国際展を行うことに関しては、私は相反する感情を持っています。京都のように素晴らしい伝統と歴史のある街で、あえて歴史から離れて現代芸術祭をやることはすごく良いことだと思います。でも他方で、京都にはやはり伝統と歴史があるので、PARASOPHIAは別に京都でやらなくてもよいのではという気もしました。皆さんは歴史との向きあい方をどう思いますか?

ビアル: 私も、その点に違和感を覚えました。京都に既にある伝統的なもの、お寺や神社などと現代アートを折り合わせた試みがもっとあると思っていましたが、今は一方に現代アートがあり、他方に伝統的なものがあって、分かれてしまっています。でも、京都に反応したからこそ生まれた作品や、どちらの世界にも出会えるようなものであればよかったのにと思います。
ハンスマイヤー: でも一方で、京都のような町が歴史から解き放たれることも大切だと思います。私は京都に住んではいませんが、伝統や歴史の重みというイメージに限界があるのではないかとも思います。
小崎: 原さんに伺います。今日の参加者の中では、原さんは一番関西のアートシーンに詳しいと思います。その原さんから見て、今回のPARASOPHIAは、関西アートシーンの歴史の連続性の上にあるものとして感じられますか?
原: 全く関係がないわけではないと思います。今回が初の本格的な国際芸術祭ということで、これまで色々な国際展で見てきた作家をまた京都で見せられるのかという意見もありますが、そうした意見が言えるのはごく一部の専門家だと思います。今は美術大学の学生ですら美術館にあまり行かない中で、一般の市民の人たちが初めて出会う現代アートがこのようなものでよかったなと思えます。ただ、少し説明不足で不親切だという気もしています。歴史的・思想的な様々なことが作品の中に込められているので、子供向けのツアーなど、何か手がかりがあれば、もっと理解しやすいのにと思います。例えば、ある程度知識のある人や現代美術を見た経験が豊富な人には文脈が理解できるけれども、初めて現代美術に出会う人たちにとっては、ガイドブックを読むだけでは容易には理解し難いです。ただ作品自体は非常に質が高いので、そこをうまく使えば、PARASOPHIAという国際展が、美術を見るだけでなく、歴史や街を知る色々な機会になりうると思います。厳しい意見が多いですが、閉幕までの間にそれをどう伝えていくのかが、私たちジャーナリストの役割だと思います。

その意味で、今回良かったと思うのは、京都市美術館の建物の歴史を見せた点です。素晴らしい建築ですが、京都在住の人も、建物全体を見る機会はあまりなかったと思います。あの建物が戦後の一時期、米軍に接収されていたことを丹念に資料で見せていた点に感心しました。美術を見ているすぐ真下に、日本の20世紀の歴史がまだそのまま残っているのです。崇仁地区もそうですが、ある土地に潜在しているものを掘り出して、共有することが知識の生産です。それに今回のPARASOPHIAは挑戦していると思いました。
クロップフライシュ: 今後、日本での国際展にとって一番大切なのは公共性だと思います。日本では、政治家が語っていても一方的で、本当に公共性の中での議論がない。公共性を大事なアプローチポイントとして盛り込んだ芸術祭がなされるべきだと思います。PARASOPHIAのプラス面としては、ボランティアの方が多数参加していたことは素晴らしいと思いました。対価を得ることなく芸術祭に参加したということは、それだけ市民の中に関心やポテンシャルがあることの素晴らしい表れだと思います。
編集: 高嶋慈
写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川
Mittwoch, 13. Mai 2015
【ハイライト】 2015/3/8, Parasophia Conversations 03 「美術館を超える展覧会は可能か」
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京都で初めての大規模な国際現代芸術祭『PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015』の開催に合わせて、同芸術祭組織委員会とゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川は、日本とドイツのキュレーターたちによる国際シンポジウム「美術館を超える展覧会は可能か」を共同開催いたしました。登壇者は、PARASOPHIA アーティスティックディレクターの河本信治氏、ドクメンタ12や釜山ビエンナーレなどの国際展を率いてきたロジャー M.ビュルゲル氏(ヨハン・ヤコブ博物館館長)、先駆的なメディア・アートの総合研究・展示施設であるZKM現代美術館館長アンドレアス・バイティン氏、PARASOPHIA 参加作家である高橋悟氏(京都市立芸術大学教授)、そして、司会の神谷幸江氏(広島市現代美術館学芸担当課長)の5 人です。展覧会を取り巻く様々な制度、新しいプラットフォームの可能性、参加性、展覧会と国際性など、様々なトピックについて意見が交換されました。
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神谷: 今日のシンポジウムは「美術館を超える展覧会は可能か」というタイトルになっています。「美術館」は展覧会を行う代表的な場所ですが、美術館や展覧会という場が制度化してしまうと、ある硬さができてしまいます。そうした制度化されたものではない展覧会の作り方や、美術の提示の仕方は可能でしょうか。今回は、様々な視点から、展覧会を取りまく組織やの制度(institution)に関わるディスカッションができればと思います。まず、河本さんから、PARASOPHIAの開催に至った経緯や意義についてお話を伺います。
河本: 私は30年間、京都国立近代美術館で展覧会を企画する中で、近代美術館という制度にいつも直面しました。近代美術館という制度が要求する諸条件を参照ないしは批判するという行為を通じて、現代作家たちの仕事を取り上げてきました。
「美術館で開催する大きなグループ展と、美術館でないテンポラリーな組織で行う大型国際展とは、どう違うのですか?」とよく聞かれましたが、私は常に明解な答えを持っています。ビエンナーレやトリエンナーレなどの大型国際展は、美術館の制度から離れることができる、つまり近代美術史という単一な美術の物語から自由になれる、非常に特権的な瞬間です。また、個別の作家たちに対して、イデオロギーとしての共感を表明できる、稀な機会でもあります。ただそうした国際展が、現在、極めて制度化・巨大化され、消費の対象になっていることに対して心を痛めています。そうした中で、PARASOPHIAという形で展覧会を行うに至りました。
ビュルゲル: 美術館、ビエンナーレなどの大型国際展、美術市場という、制度(institution)の3つのレベルをそれぞれ相互関係にあるものとして捉える必要があると思います。テートやMoMAのように巨大な制度では、縛られる場合も多い。美術市場にも左右されるし、ビエンナーレなどの制度の中に見せなければならないものもあります。
河本さんは先ほど、美術館という制度から離れて自由な経験ができるとおっしゃいましたが、一方で、見る人にとっての難しさもあります。1990年代、近代美術館とコンテンポラリーなものを見せる現代美術館との間に断絶が生まれ、非西洋的な文化的な地図が生まれたときに、西洋の美術の経験値では読み取ることのできないものをどう伝えればよいのかという問題です。
神谷: 皆さんが制度(institution)について話されるとき、まず美術館という場所が出てきますが、その歴史的な側面についてもお話いただけますか。
河本: いわゆる従来の美術館(museum of fine art)と、近代美術館(museum of modern art)の区別についてお話します。まず、フランス革命以後のヨーロッパにおける美術館の機能とは、国民国家の文化的基盤を創るためのものでした。そして1920年代末のアメリカで、制度としての近代美術館(museum of modern art)が確立されました。その定義は非常に明解です。ヨーロッパで培われた美術史を捨て去り、新しい時代の美術史、つまり近代美術史(history of modern art)を単一の物語に収斂させていくことです。この物語を成立させるために必要だったのが、均一でニュートラルな展示場所、つまり白く四角い箱としてのホワイトキューブです。そして美術作品を元の場所から切り離して、単語化し、物語と照合するように整理していく行為がコレクションです。これが、近代美術館のシステム及び近代美術史であると私は考えています。
この制度が非常に強力である理由は、白く四角い空間を用意すれば、世界中どこに持っていっても同じ物語が語れるという普遍性があるからです。そして、皮肉なことに、ホワイトキューブを持つ美術館が、60年代以降から80年代にかけてどんどん世界中を覆っていく一方で、そうした制度を批判検証するための「現代美術(contemporary art)」という定義が生まれました。この立場を守るために必要なものとして、三つの要素を私は挙げています。一つめはコレクションの放棄、つまり物語を語る行為や単語を捨てることです。それに従って、美術館の中で美術史を書くことを放棄すること。そして、ホワイトキューブを放棄すること。これが、現代美術館であるための厳密な定義だと思います。その上で、個別の作家たちの行為に対して、あなたのイデオロギーを支持しますという共犯関係を結ぶこと。おそらくこれが、現代美術館の大きな役割ではないかと思います。
バイティン: ドイツの美術の制度(institution)の多様性についてお話します。ドイツには、200年前から、芸術協会(Kunstverein)という市民がつくった団体があります。19世紀初め頃、貴族が美術をほぼ独占した状態に対して、ブルジョワたちによってつくられました。最近では、ミュージアム的な展覧会が開催されることもあります。また、基本的にコレクションを持たないクンストハレ(Kunsthalle)という存在もあります。
ビュルゲル: もう一つの制度として、ドクメンタが挙げられます。ドクメンタは元々は制度化する意図はなく、園芸のメッセの関連事業として1955年に開催されたのが始まりでした。そこには、戦後のトラウマを抱え、文化的な国に戻りたいという強い願望があり、コンテンポラリー・アートが架け橋として重要な役割を果たしました。
神谷: 今までのお話で、様々な既成の制度の書き換えの中で新たな美術館制度がつくられてきたこと、さらにアーティストとのディスカッションがニュートラルな形でできるようになる国際展が登場したことなど、展覧会というフォーマットが様々な段階において生まれ、現代はそれらが混在・共存しているという地図が見えてきたと思います。
高橋: 皆さんのお話を聞いていて、再確認しなければならないと思ったことがあります。「同時代性、コンテンポラリー」という言葉を使われていましたが、その考え方自体を成立させたのは何か、ということです。1850年頃に立ち戻って考える必要があって、美術館、地図、人口調査、出版資本主義、という四つが組み合わさって初めて可能になったと思います。例えば新聞ができて、世界中の情報が一つの紙面に並べられることで、世界中で同じ空間と時間を共有しているという「現在性」の概念が生まれました。それを支えたものが、国民国家という近代の制度です。ですから、単に美術の問題だけではなくて、コンテンポラリーという概念自身を支えたものの裏側を考えないと、なかなか深い話はできないのではと思いました。
次に考える必要があるのが、近代以降、21世紀の現代においてますます大きくなっているグローバル資本主義です。これは、国民国家という制度を超えて世界中に広がっている、非常に不穏な脅威で、国際展を蝕んでいることも事実だと思います。さらに、21世紀の現状として、美術業界において分業システムがどんどん進み、作品をつくる人、売る人、批評を書く人、展示を行う人、というように専門職化しています。では教育の現場でどのような抵抗をすればよいのか。分業ではなくて、今までつながっていなかったものをどんどん関係させて新しいビジョンを出していくという別のアプローチが必要だと考えています。
神谷: 河本さんはPARASOPHIAのステートメントの中で、「思考と創造のプラットフォームを京都に根付かせたい」とおっしゃっておられますが、PARASOPHIAを通じてどういうことを投げかけたいと考えておられますか。
河本: PARASOPHIAは展覧会というより、ものの考え方や態度といったアプリケーションだと考えています。これをシェアウェアとして共有してもらい、場所や状況に応じて、色々な人が違う形で立ち上げて具体化していく、そうした広がり方を理想としています。それが継続されて制度化していったときに、反発する人たちがバージョンを更新していくような動きが知的な作用なのだろうと思います。それが京都に根付いてほしいという気持ちを込めました。
高橋: PARASOPHIAのコンセプトには共感を覚える一方、非常に知的であるなと感じます。それは悪いことではないのですが、人間の経験は総体的なもので、知的な力だけではなくて、心臓がドキドキしたり足元がフラフラするような経験がないと、複数の人間が共感する場を生み出せないだろうと思います。そのためにも、例えば、観客も搬入作業に参加して、重たい鉄の作品を一緒に美術館に運ぶなど、色んな別種のコミュニケーションの方法があってよいのではと思います。
バイティン: プラットフォームとしての美術展というのは、とても成功していると思います。PARASOPHIAには参加型の作品もあり、非常にバラエティに富んだ展覧会になっていると思います。私も、今日の展覧会は、単に作品を紹介するだけではなく、社会的なアプローチも必要だし、観客を巻き込むことも大切だと思います。ワークショップでもレクチャーでも何でもよいのですが、社会的・政治的テーマと向き合ってもらう必要があると思います。
神谷: 参加性(participation)というキーワードが出てきました。今は、出来上がったものを見せるだけではない、プロセスの体験の場所としての美術館や展覧会が求められていると思います。しかし一方で、共有や参加は、本当にどこまで可能かという疑問も生まれてきます。特に日本の場合、人口減少が進む中で、美術が市や町を活性化してくれる起爆剤としての役割を求められているように感じます。参加性(participation)について、皆さんからご意見をいただけますか。
バイティン: 美術における参加性のルーツは、1960年代~70年代のハプニングに見出せます。美術館や展覧会といった制度的なホワイトキューブから離れて、路上など公共の場でアートを行う動きがありました。そうすると、自分からは美術館に行かない人たちが、望むと望まざるとにかかわらず、アートに向き合わざるを得ないような形でアートが営まれていたわけです。人々が美術館に行くのではなく、アートの方が路上に出て行く。こうしたアプローチから、数多くの優れた試みが生まれてきました。例えば、PARASOPHIAでは、ジャン=リュック・ヴィルムートの《カフェ・リトル・ボーイ》という作品があります。壁にコメントを書き残してもらうことで、広島に原子爆弾が投下された歴史的瞬間を共有して、それに向き合ってもらう作品です。こうした姿勢をさらに拡大していくべきだと思います。
高橋: 僕は個人的には、現代美術の教科書に載っているような、参加型アートのあり方はつまらないなと思っています。お客さんが参加したいわけではなくて、アーティストがお客さんの参加を必要としているものがほとんどです。たまたま美術館に来た人にちょっと参加していただいて、これで世の中と関わっていますという言い訳的な作品がほとんどなんです。それは本当に参加と言えるのだろうか。participationという言葉自体に問題があって、個人的にはengagementという言葉を使いたい。展覧会という限られた期間でなく、もっと長期的に、固有名詞の関係で向かい合うという意味です。そうした関わり合いの中で、ローカルな問題をグローバルに、あるいはグローバルな問題をローカルに扱うといった別の視点でやっていかないと、参加型というあり方はリアリティのない空虚なものだと思います。
河本: 非常に深い部分に触れてくださいました。今の参加型についてのお話には、かなり共感しました。責められるかもしれませんが、参加型の美術がもてはやされる今の状況は、批評的な視線の衰退と重なっていると思います。ものを見るという行為は非常に創造的な行為です。これは自分で展開していかなければできないもので、決して民主的ではない。そして作品と行き来しながら、自分の中で表象されるものを分析していく、その解読が間違っていていいんだ、つまり作家の意図と一致しなくていいんだ、その幅こそが本当に創造的なものの見方なんだと思います。ですから、安易に語られる参加型、民主的な美術、民主的なアート・フェスティバルについて、私は根本的な疑問を持つという意味では、高橋さんと同意見です。
ビュルゲル: 今おっしゃった、参加型の問題について、一例をお話します。PARASOPHIAと同様に、ドクメンタのような国際展には、数多くの人が訪れるので、子供や若者をどうしたら取り込めるだろうかと考えます。私は、権力の再分配ということが、芸術のレベルだけでなく、制度のレベルにおいても、一つのキーワードであると思います。私はドクメンタ12において、美術に関心のない若い世代に対して、展覧会のガイドを君たちに任せるというアプローチを取りました。君たちは展覧会について話してもいいし、自分の好きなことを話してもいい。大人たちは一時間、君たちの話に耳を傾ける。このアイデアは、若い世代を非常に面白がらせました。どう行動するのかを自分たちで決める、自分たちが権力の側に立つことが彼らの関心を呼んだのです。観客が興味を持ってプログラムに参加してくれる、それも一回きりではなく、中長期的に参加してくれるような形で、どうやって我々の権力を放棄すればよいのかを考え直さなければならないと思います。
神谷: 最後に、展覧会と国際性についてお聞きします。バックグラウンドの全く違うものを、ホワイトキューブというニュートラルな空間の中に置いたとき、私たちはその背後にある違いを見ることはできるのでしょうか。PARASOPHIAのような国際展の醍醐味の一つは、様々なバックグラウンドを持つアーティストの作品を見られることだと思いますが、それが、文化の多様性をしっかりと紹介できているのか、それともむしろ均質化してしまっているのか。功罪について様々な見方があると思いますが、皆さんはどのように考えておられますか。
河本: 簡単に答えられない、難しい問題です。現在、100~200人のアーティストを集めた大型国際展は、世界中にあります。その中で、京都で新たに国際展をやろうとしたときに、同じことをやる意味があるだろうかと考えました。唯一できることは、今あるグローバルスタンダードの大規模な国際展とは違うものをつくってみることでした。大型国際展が世界中を均質化している中で、非常に個人的な視点からイレギュラーな塊をつくってみたという形での介入だと思います。
バイティン: 制度の危機についてお話しします。今は、とにかく求められるものがイベントになってきていて、当然の結果として展覧会が表面的なものになってしまうという危機感があります。本当にそこから独立した形で何ができるのか、資金が限られた中で何ができるのか、そうした課題に向き合っている日々です。展覧会を行うことで、作品の価値を高める手伝いをしていることは間違いのないことですが、なるべく美術市場から離れたところで、重要だと思うものを紹介したいと考えています。
神谷: 今日のディスカッションの中で、印象に残った言葉を皆さんからいただきました。participationという言葉ではなく、engageする、もっと深く関わっていくことで、美術というものを考えていく体験にする、そして何かをするときの権力をいったん放棄して、今まで権力を持たないと思われてきた人々に再分配することで、新しい美術の取り組みができるのではないか。それは物理的な場所である必要はなくて、皆が共有できるプラットフォームができていくのではないか。困難な時代ですが、そうした希望や努力が求められていることを確認したと思います。今日は皆さん、様々な意見をありがとうございました。
編集: 高嶋慈
写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 "【ハイライト】 2015/3/8, Parasophia Conversations 03..." vollständig lesen »
京都で初めての大規模な国際現代芸術祭『PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015』の開催に合わせて、同芸術祭組織委員会とゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川は、日本とドイツのキュレーターたちによる国際シンポジウム「美術館を超える展覧会は可能か」を共同開催いたしました。登壇者は、PARASOPHIA アーティスティックディレクターの河本信治氏、ドクメンタ12や釜山ビエンナーレなどの国際展を率いてきたロジャー M.ビュルゲル氏(ヨハン・ヤコブ博物館館長)、先駆的なメディア・アートの総合研究・展示施設であるZKM現代美術館館長アンドレアス・バイティン氏、PARASOPHIA 参加作家である高橋悟氏(京都市立芸術大学教授)、そして、司会の神谷幸江氏(広島市現代美術館学芸担当課長)の5 人です。展覧会を取り巻く様々な制度、新しいプラットフォームの可能性、参加性、展覧会と国際性など、様々なトピックについて意見が交換されました。
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【展覧会の制度(institution)】

河本: 私は30年間、京都国立近代美術館で展覧会を企画する中で、近代美術館という制度にいつも直面しました。近代美術館という制度が要求する諸条件を参照ないしは批判するという行為を通じて、現代作家たちの仕事を取り上げてきました。
「美術館で開催する大きなグループ展と、美術館でないテンポラリーな組織で行う大型国際展とは、どう違うのですか?」とよく聞かれましたが、私は常に明解な答えを持っています。ビエンナーレやトリエンナーレなどの大型国際展は、美術館の制度から離れることができる、つまり近代美術史という単一な美術の物語から自由になれる、非常に特権的な瞬間です。また、個別の作家たちに対して、イデオロギーとしての共感を表明できる、稀な機会でもあります。ただそうした国際展が、現在、極めて制度化・巨大化され、消費の対象になっていることに対して心を痛めています。そうした中で、PARASOPHIAという形で展覧会を行うに至りました。

河本さんは先ほど、美術館という制度から離れて自由な経験ができるとおっしゃいましたが、一方で、見る人にとっての難しさもあります。1990年代、近代美術館とコンテンポラリーなものを見せる現代美術館との間に断絶が生まれ、非西洋的な文化的な地図が生まれたときに、西洋の美術の経験値では読み取ることのできないものをどう伝えればよいのかという問題です。
神谷: 皆さんが制度(institution)について話されるとき、まず美術館という場所が出てきますが、その歴史的な側面についてもお話いただけますか。

この制度が非常に強力である理由は、白く四角い空間を用意すれば、世界中どこに持っていっても同じ物語が語れるという普遍性があるからです。そして、皮肉なことに、ホワイトキューブを持つ美術館が、60年代以降から80年代にかけてどんどん世界中を覆っていく一方で、そうした制度を批判検証するための「現代美術(contemporary art)」という定義が生まれました。この立場を守るために必要なものとして、三つの要素を私は挙げています。一つめはコレクションの放棄、つまり物語を語る行為や単語を捨てることです。それに従って、美術館の中で美術史を書くことを放棄すること。そして、ホワイトキューブを放棄すること。これが、現代美術館であるための厳密な定義だと思います。その上で、個別の作家たちの行為に対して、あなたのイデオロギーを支持しますという共犯関係を結ぶこと。おそらくこれが、現代美術館の大きな役割ではないかと思います。
バイティン: ドイツの美術の制度(institution)の多様性についてお話します。ドイツには、200年前から、芸術協会(Kunstverein)という市民がつくった団体があります。19世紀初め頃、貴族が美術をほぼ独占した状態に対して、ブルジョワたちによってつくられました。最近では、ミュージアム的な展覧会が開催されることもあります。また、基本的にコレクションを持たないクンストハレ(Kunsthalle)という存在もあります。
ビュルゲル: もう一つの制度として、ドクメンタが挙げられます。ドクメンタは元々は制度化する意図はなく、園芸のメッセの関連事業として1955年に開催されたのが始まりでした。そこには、戦後のトラウマを抱え、文化的な国に戻りたいという強い願望があり、コンテンポラリー・アートが架け橋として重要な役割を果たしました。
神谷: 今までのお話で、様々な既成の制度の書き換えの中で新たな美術館制度がつくられてきたこと、さらにアーティストとのディスカッションがニュートラルな形でできるようになる国際展が登場したことなど、展覧会というフォーマットが様々な段階において生まれ、現代はそれらが混在・共存しているという地図が見えてきたと思います。

次に考える必要があるのが、近代以降、21世紀の現代においてますます大きくなっているグローバル資本主義です。これは、国民国家という制度を超えて世界中に広がっている、非常に不穏な脅威で、国際展を蝕んでいることも事実だと思います。さらに、21世紀の現状として、美術業界において分業システムがどんどん進み、作品をつくる人、売る人、批評を書く人、展示を行う人、というように専門職化しています。では教育の現場でどのような抵抗をすればよいのか。分業ではなくて、今までつながっていなかったものをどんどん関係させて新しいビジョンを出していくという別のアプローチが必要だと考えています。
【プラットフォームとしての展覧会】
神谷: 河本さんはPARASOPHIAのステートメントの中で、「思考と創造のプラットフォームを京都に根付かせたい」とおっしゃっておられますが、PARASOPHIAを通じてどういうことを投げかけたいと考えておられますか。
河本: PARASOPHIAは展覧会というより、ものの考え方や態度といったアプリケーションだと考えています。これをシェアウェアとして共有してもらい、場所や状況に応じて、色々な人が違う形で立ち上げて具体化していく、そうした広がり方を理想としています。それが継続されて制度化していったときに、反発する人たちがバージョンを更新していくような動きが知的な作用なのだろうと思います。それが京都に根付いてほしいという気持ちを込めました。
高橋: PARASOPHIAのコンセプトには共感を覚える一方、非常に知的であるなと感じます。それは悪いことではないのですが、人間の経験は総体的なもので、知的な力だけではなくて、心臓がドキドキしたり足元がフラフラするような経験がないと、複数の人間が共感する場を生み出せないだろうと思います。そのためにも、例えば、観客も搬入作業に参加して、重たい鉄の作品を一緒に美術館に運ぶなど、色んな別種のコミュニケーションの方法があってよいのではと思います。

【参加性と権力の再分配】
神谷: 参加性(participation)というキーワードが出てきました。今は、出来上がったものを見せるだけではない、プロセスの体験の場所としての美術館や展覧会が求められていると思います。しかし一方で、共有や参加は、本当にどこまで可能かという疑問も生まれてきます。特に日本の場合、人口減少が進む中で、美術が市や町を活性化してくれる起爆剤としての役割を求められているように感じます。参加性(participation)について、皆さんからご意見をいただけますか。

高橋: 僕は個人的には、現代美術の教科書に載っているような、参加型アートのあり方はつまらないなと思っています。お客さんが参加したいわけではなくて、アーティストがお客さんの参加を必要としているものがほとんどです。たまたま美術館に来た人にちょっと参加していただいて、これで世の中と関わっていますという言い訳的な作品がほとんどなんです。それは本当に参加と言えるのだろうか。participationという言葉自体に問題があって、個人的にはengagementという言葉を使いたい。展覧会という限られた期間でなく、もっと長期的に、固有名詞の関係で向かい合うという意味です。そうした関わり合いの中で、ローカルな問題をグローバルに、あるいはグローバルな問題をローカルに扱うといった別の視点でやっていかないと、参加型というあり方はリアリティのない空虚なものだと思います。
河本: 非常に深い部分に触れてくださいました。今の参加型についてのお話には、かなり共感しました。責められるかもしれませんが、参加型の美術がもてはやされる今の状況は、批評的な視線の衰退と重なっていると思います。ものを見るという行為は非常に創造的な行為です。これは自分で展開していかなければできないもので、決して民主的ではない。そして作品と行き来しながら、自分の中で表象されるものを分析していく、その解読が間違っていていいんだ、つまり作家の意図と一致しなくていいんだ、その幅こそが本当に創造的なものの見方なんだと思います。ですから、安易に語られる参加型、民主的な美術、民主的なアート・フェスティバルについて、私は根本的な疑問を持つという意味では、高橋さんと同意見です。
ビュルゲル: 今おっしゃった、参加型の問題について、一例をお話します。PARASOPHIAと同様に、ドクメンタのような国際展には、数多くの人が訪れるので、子供や若者をどうしたら取り込めるだろうかと考えます。私は、権力の再分配ということが、芸術のレベルだけでなく、制度のレベルにおいても、一つのキーワードであると思います。私はドクメンタ12において、美術に関心のない若い世代に対して、展覧会のガイドを君たちに任せるというアプローチを取りました。君たちは展覧会について話してもいいし、自分の好きなことを話してもいい。大人たちは一時間、君たちの話に耳を傾ける。このアイデアは、若い世代を非常に面白がらせました。どう行動するのかを自分たちで決める、自分たちが権力の側に立つことが彼らの関心を呼んだのです。観客が興味を持ってプログラムに参加してくれる、それも一回きりではなく、中長期的に参加してくれるような形で、どうやって我々の権力を放棄すればよいのかを考え直さなければならないと思います。
【展覧会と国際性】

河本: 簡単に答えられない、難しい問題です。現在、100~200人のアーティストを集めた大型国際展は、世界中にあります。その中で、京都で新たに国際展をやろうとしたときに、同じことをやる意味があるだろうかと考えました。唯一できることは、今あるグローバルスタンダードの大規模な国際展とは違うものをつくってみることでした。大型国際展が世界中を均質化している中で、非常に個人的な視点からイレギュラーな塊をつくってみたという形での介入だと思います。
バイティン: 制度の危機についてお話しします。今は、とにかく求められるものがイベントになってきていて、当然の結果として展覧会が表面的なものになってしまうという危機感があります。本当にそこから独立した形で何ができるのか、資金が限られた中で何ができるのか、そうした課題に向き合っている日々です。展覧会を行うことで、作品の価値を高める手伝いをしていることは間違いのないことですが、なるべく美術市場から離れたところで、重要だと思うものを紹介したいと考えています。
神谷: 今日のディスカッションの中で、印象に残った言葉を皆さんからいただきました。participationという言葉ではなく、engageする、もっと深く関わっていくことで、美術というものを考えていく体験にする、そして何かをするときの権力をいったん放棄して、今まで権力を持たないと思われてきた人々に再分配することで、新しい美術の取り組みができるのではないか。それは物理的な場所である必要はなくて、皆が共有できるプラットフォームができていくのではないか。困難な時代ですが、そうした希望や努力が求められていることを確認したと思います。今日は皆さん、様々な意見をありがとうございました。
編集: 高嶋慈
写真: ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川 "【ハイライト】 2015/3/8, Parasophia Conversations 03..." vollständig lesen »
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