
「記憶と記録」というテーマは、アーティストにとっては重要な切り口となる。特に今回の登壇者のような、写真や映像、メディア、建築といったジャンルの作家にとっては、記録そのものが直接的な表現として作品と結びついていることも少なくない。レジデンツとゲストの組み合わせの妙、そしてそれに合うテーマがあった。各々の作品におけるステートメントをふまえた上で記憶と記録への接し方、さらには、情報、アーカイブとそれに対する姿勢といった、これからの社会における普遍的な考え方にも迫るものとなった。

まず、各作家によるプレゼンテーション。仲西祐介氏は若い頃から旅が好きで、しかしカメラは持たず、身体で記憶する。そして、その記憶したイメージを光へ変換、インスタレーション作品などを制作している。そのかたわらで、KYOTOGRAPHIEという国際的な写真祭を昨年立ち上げた。小野規氏はフォトグラファーで、写真作品を発表しているが、作品はおもに現代の社会空間に表れる、人間によって表象される出来事を記録していくもの。トルコのゲジパークにて撮影を行い、制作中だという新作についてもスライドで紹介が行われた。

レジデンツ側、建築家であるスヴェン・プファイファー氏は、伝統的な技術と現代のテクノロジーを軸に、建築と気候変動・環境に関しての研究にも取り組んでいる。アンドレアス・ハルトマン氏は、映像作家。ベトナム、ミャンマーにて、異邦人としての目線を以て社会と人間の関係を浮かび上がらせるドキュメンタリー作品を制作している。イェルク・コープマン氏は、写真家としての活動と並行して出版業を行うなど、表現の枠組みにとらわれない意欲的なアーティストだ。

座談会後半は、ベルリンのホロコースト記念碑、ユダヤ博物館の空間が持つ性質について。そこから現在の日本と切っても切り離せない東日本大震災、そしてそれに対する記念碑の必要性について展開した。どちらも日本とドイツにおける負の記憶ではあるが、感情的ではなく、アーティストとしての客観性を持った立場からの発言は、とても分かりやすいものだった。

ハルトマン氏が話していたように、写真とは主観的なものである。人間の記憶は曖昧で、記憶するのと同時に忘れることも特技である。加えると、自分の都合のいいように変更してしまうことも特技である。個人の記憶と集団の記憶が食い違うことはよくあるし、それが一致して暴走になることもある。ドキュメンタリーの映像にも、制作側の意図が存在している。そういった意味では、記憶と記録というものも、客観的で中立的な真実という意味で存在しておらず、真実はそれぞれにとってのものでしかない、ということを改めて納得させられた。

東日本大震災に対する記念碑的なものの必要性は、複数の記録(例えば、ハルトマン氏の言葉を介さない映像作品や、小野氏の写真による風景の作品のような、抽象的で一義的ではない表現)とともにあることで意義を成し、多種多様なメッセージとして存在していくことが重要だということ。最終的には、個人によって情報が選択され、記憶や記録となる。そのとき行われる情報の取捨選択、編集という行為こそが、個人そのものであり、共有とアーカイブの時代にとって、編集とは、個人個人によってなされていく姿勢のようなものではないかと感じた。